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思索の日記

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毎日の何気ない日常は宝物。何処かへ行かなくったって、思索する素材はいつも目の前に自然と在った。当たり前に対する感性を文章に変えて、感じたものを伝えます。思考がまとまらないことも多… もっと読む
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記事一覧

無駄な努力と言われても【思索】

どんなに頑張っても給料は変わらず、サボりまくりの同僚と同じ給料だとして、あなたはそれでも努力を怠らないだろうか? 頑張っても頑張らなくても報酬は同じなんだ。 じゃあ頑張っても無駄じゃないか? こんなのは無駄な努力だと嗤われるだろう。 それでもなぜ頑張るのだろうか? 無駄だと分かっているのに何故? それは一生懸命することに無駄はないからだ。 直接的な報酬に影響はないが、確実に自分の人生の中では無駄になっていない。 どんなことでも一生懸命努力できる人は、どんな困難

恵まれた刺激に慣れてしまって【思索】

毎日を不満に生きている人は、一体何が不満なのだろう。 食べるものがあって、学校や会社に行けて、勉強ができて、給料がもらえて、人と関わって、生きることができて。 一体何が不満なのだろうか? 一生懸命生きているときは不思議とそういう不満は出なくなる。 (絶対ではないが) 不満や文句が漏れるときは大抵『恵まれて刺激に慣れてしまっている』ことがほとんどだ。 自尊心を傷つけられて駄々をこねているだけに見える。 あまり幸せの背比べをするべきではないが、自分の幸せを基準にして考

嫌なことの向き合い方【思索】

生きていたら嫌なことなんていくらでもある。 できれば嫌なことなんて何一つ出逢わずに、楽しく生きていたいものだ。 もちろんそんなことはできない。 どうしても嫌なことは人生において必ず発生する。 それが生きるということなのだから。 では、どう向き合って生きていけばいいのだろうか? 基本的には、気分転換したり、解決したり、発散させたり忘れたりするのが主流だと思う。 その考えに一歩、発展させたい。 それは『他人に同じことをしない』ことだ。 たとえば、いじめられたなら

ありがとうもまともに言えない【思索】

私達の言葉は人の個性によって七変化する。 例えば『おはよう』なら『おっす』『チィーッス』『やっほー』とか言い換えることができる。 その人の個性だし、それを奪ってしまうととても平凡でつまらないとも思う。 だから、人によって挨拶や言葉遣いが違うのはある意味人生の彩と言えるのかもしれない。 しかし感謝の『ありがとう』に関してはどうだろうか? 『あざっす』で済ませていいものだろうか? と疑問に思った。 『ありがとう』には一字一字意味が込められているらしい。 ちゃんと言わ

答えが見つからない【思索】

分からないことがあったら、とりあえずまずはネットで調べることが多い。 しかし、答えが見つからないことがほとんどだ。 調べ方が悪いと言えばそこでおしまいになってしまうが、内容が抽象的すぎるのがいけないのかもしれない。 単語や漢字の意味や効果なんかは、単語を検索すればいくらでも出てくる。 しかし、人の心の内情や悩み事といった『人によって表現が違う』事柄については、ネットは弱いかもしれない。 AIなんかでも人の心理には弱いものだ。 自分の内面について悩んでいて、検索しま

安心感の恐怖【思索】

孤独よりも誰かが隣にいるととても安心する。 自分の言動に自信がなくても、話を聞いてくれるだけで自分は間違っていないと錯覚する。 仲間がいるってこんなにも良い物なんだ。 だんだん声も大きくなってきて、虚栄心がみなぎってきた。 勇気を貰えた安心感で、人生を満喫することができる。 普通、人は自分の考えを肯定してもらいたいものだ。 全否定されてしまっては、自分の生きる意味を見失ってしまう。 だから、仲間を求めて孤独を埋める。 一体何を使ってこの孤独を埋めたのだろうか?

現代版打ち出の小槌【思索】

資本主義社会において、お金を稼ぐことは必須と言える。 もっと言えば、金をたくさん稼いだ人間は偉いと無意識で認識されている。 人間の歴史においても現代のような方法で金を稼いだ歴史はないだろう。 では、何が『現代版打ち出の小槌』だと言いたいのか? それは、『他人の作品を利用して金を稼ぐ』という行為に対して揶揄している。 多くの人が関わって一つの作品や商品を創り上げていく行為はとくに言うことはない。 しかし、自分が何一つ関わっていない物事を商品にしてお金を稼ぐ行為は果た

迷惑を掛けずに生きることはできない【思索】

『他人に迷惑をかけるな』と、言われたことはあるだろうか? 子供の教育の一環として、人様に迷惑をかけるなと言われただろう。 しかし、冷静に考えてみて欲しい。 この世の中を生きる上で『迷惑』をかけずに生きることはできるだろうか? 大の大人でも迷惑を掛けずにいている人がいるのなら、是非紹介して欲しい。 よく考えると、自分でもできないことを子供に強要していることになる。 出来なければ怒られるなんて、こんなにも理不尽なことはあるのだろうか? 本当に教育として子供に教えるの

不快な心も私自身【思索】

自分の中の好きや楽しいを探す。 そうやって自分の心に従って生きていこう、というのが流行している。 社会の中で生きているとどうしても自分というものが希薄になる場合がある。 そんな時は、些細なことでも自分の好きに応えると心が満たされて幸せになっていく。 それが今現代で言われている事だろうと思う。 自分のスキを探そう、楽しく生きよう、幸せになろうというのは人生における共通の目的かもしれない。 しかしそれだけに目を向けて、不快なもの、嫌いなものを見ないようにしてしまうと、

理解できなくても、受け入れる心【思索】

世の中、理解できないことはたくさんある。 世界の事、社会の事、相手の事、自分の事さえもよく分からない。 理解しているように見えても、完全に理解している証明はできないのよ同じ様に、分からないからといって別に死活問題でもない。 人によっては言葉や雰囲気で相手のことを理解することはできるが(エンパスとかHSPとか)、共感はできても理解はできているのだろうか? たとえば、病気はどうだろう。 相手がとても苦しそうで、それを受け取って自分も苦しくなる時、これは共感していると言え

物事の否定は発想を閉ざす【思索】

人にはどうしても好き嫌いがある。 好きには理由はないし、嫌いにはなにかと理由を付けて拒否してしまうものだ。 しかしながら、ものを考えるときにおいてはとりあえず自分の中の好き嫌いを考慮しない方が発想の幅が広がる。 自分が好きだからといって、万人が好きだとは限らないことは言うまでもない。 自分にとって嫌いなことでも、なにか発想を得たい、思考の幅を広げたいという場合はそれを取り除かなければならない。 我を捨てる、とまではいかなくても全てを受け入れる姿勢が不可欠になる。

じっくり考えない現代社会【思索】

私達の身の回りは情報で溢れていることは言うまでもない。 毎日情報を摂取して、一つ一つの情報に向き合うことなく流されていく。 現代社会は消費社会だし、それでもいいのかもしれない。 消費して経済を回すことで、私達は今の生活ができている。 人類の歴史で類を見ない社会の在り方である。 だからこそ手探り状態で類例がなく、何が正しくて何が間違っているのかの判別さえつかずに、ただただ命を浪費していく。 私達は情報に慣れていない。 もちろん情報の分析はできるし、膨大なデータだろ

誰かの為に吐く嘘の名前【思索】

嘘は悪い事だと子供に教えるものだ。 教えなくても人は誰しも嘘を吐く。 大抵は自分が見栄を張るための、所謂『虚栄心』という奴で、本能的に自分を大きく魅せることで、強い自分を演じるものだ。 動物の本能としては正しいのかもしれない。 弱さを見せれば付け込まれるから。 事実ではなかったとしても、見栄を張ること自体は決して悪とは呼べないだろう。 なぜ駄目なのか? なぜ悪い事なのかを考える必要がある。 逆に、良い嘘とは何なのか? 考えることも一つの策。 テーマである『誰か

『デキる人』の役目【思索】

世の中にはプロや上手な人、才能がある人など、所謂その物事に対しての『デキる人』というのがいる。 涙ぐましい努力でも、たいした努力をしなかったとしてもそんなもの関係なくデキる人の役割がある。 それは、教えることと貢献することである。 個人がどれだけの技術があって才能があっても、それだけでは宝の持ち腐れだ。 自分のためは勿論のこと、他人のために使ってこそ意味があるはずだ。 目の前の人に喜んでもらうために、その才能を身につけたのではなかったのか? 決して他人を見下すため