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不快な心も私自身【思索】

自分の中の好きや楽しいを探す。

そうやって自分の心に従って生きていこう、というのが流行している。

社会の中で生きているとどうしても自分というものが希薄になる場合がある。

そんな時は、些細なことでも自分の好きに応えると心が満たされて幸せになっていく。

それが今現代で言われている事だろうと思う。

自分のスキを探そう、楽しく生きよう、幸せになろうというのは人生における共通の目的かもしれない。

しかしそれだけに目を向けて、不快なもの、嫌いなものを見ないようにしてしまうと、それはそれで人生と言えるのかどうか、甚だ疑問だ。

できれば人生は楽しさと好きで彩りたい気持ちはもちろんある。

その方が楽しいのだろうと思う。

しかし、それは本当に私なのだろうか?

好きなもの、楽しいものだけを意識している私は、私の全てと言えるのだろうか?

嫌いや不快なものがある私も、私自身ではないだろうか?

自分の中の嫌いを知れば、相手の事にも気を使うことができる。

平たく言えば『自分が嫌なことは、相手にもやらない』。

嫌いを知ることで、分かる価値もあるのだろうと思う。

がっかりしたっていい、嫌いなもので不快になってもいい。

駄目なのは、嫌いなものを拒絶することだ。

好きになることはしなくてもいいが、せめて受け入れるくらいはしたい。

嫌いだからと言って、何をしても良い、何を言っても良いなんて、道理が通るはずはない。

私はこれが嫌いなんだ、と実感してそれさえ楽しんでしまえば大したものだろう。

不快は快と同じくらい恵まれた宝物であると自覚したいものだ。

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