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理解できなくても、受け入れる心【思索】

世の中、理解できないことはたくさんある。

世界の事、社会の事、相手の事、自分の事さえもよく分からない。

理解しているように見えても、完全に理解している証明はできないのよ同じ様に、分からないからといって別に死活問題でもない。

人によっては言葉や雰囲気で相手のことを理解することはできるが(エンパスとかHSPとか)、共感はできても理解はできているのだろうか?

たとえば、病気はどうだろう。

相手がとても苦しそうで、それを受け取って自分も苦しくなる時、これは共感していると言えるだろう。

しかし、痛みを理解しているか? といえば微妙だ。

自分自身も同じ経験をして初めて理解に至ることが普通ではなかろうか?

経験は理解に繋がるといえる。

では、理解しなければならないのか? 同じ経験をしなくては資格はないのか? と言われればもちろんそんなことはない。

むしろ、理解できる方が稀だ。

理解できないのが普通なんだ、感じている世界が人それぞれ違うのだから。

たとえ理解できようとできまいと、やることは同じだ。

『受け入れる』ことをしなければ、理解なんて到底不可能だ。

別に理解なんてしなくていい。

もちろん理解してくれた方が嬉しいけれど。

ただただ、受け入れて欲しいだけだ。

私もあなたも。

正解なんて求めなくていいし、理解なんて無理にする必要はない。

ただ、心から聞いてほしい、受け止めて欲しいだけなんだから。

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