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春に死にたい

0301 閏年だったことも忘れていたけれど、もう3月。暖かいんだか寒いんだかよくわからなくて混乱したまま3月を迎えた。

今日も変わらずお仕事。朝はのんびり珈琲を淹れる。少し前にようやく珈琲のおいしさに気づき、浅煎りも深煎りもわかっていないままに飲んでいたのだけど、最近深煎りが好きだということに気づいて成長を感じた。ひとはいくつになっても成長できるんだった。ほんの少し感動した。

バスに揺られること20分ほど、この時間を読書に充てるのが最近の好きな時間。

店番中、マイナビと書かれた袋をぶら下げスーツを着た就活生と思しき人たちがたくさんいる。私はそういったイベントに一度も参加したことがないうえに、就活もしたことがないのでなんだかよくわからないけれど眩しく感じた。
精神が不安定にならず一般的な大学時代を過ごしていたら私もそのレールの上を走っていたのかと思うと、良かったと思う一方で普通のレールが羨ましくも感じる。

普通ではない人生を送ってきたという自負はある。それは良くも悪くも。

どこに行っても自分だけが異質なものであるかのように感じていたし実際にそうだったのだと思う。生きづらいなあと感じつつ必死に生きていた。今でもそれは変わっていない。その生きづらさや普通でないことを隠そうと普通の人を演じている気がする。そうすることでさらに生きづらいのにね。
でもそうした生き方しか知らないので、少しずつリハビリしていくしか方法はないのだと思う。

それが生きるということ、人生なのだろうなと最近になってようやく理解しはじめた段階にいる。

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生きてるかぎり、死にたい夜がいくつもやってくる。

薄着で外に出たら想像以上に骨身に沁みる寒さだったとか、お給料が先月より少ないとか少し高かった洋服が汚れたとか、職場からの帰り道空を見上げたら夜空に浮かぶ月が綺麗だったとか、メイクがうまくいかなかったとか、メイクを落とさず寝た次の日の朝とか。
そんなささやかで他人からするとそんなことで?と思われるような、でも確実な絶望が積み重なったとき、ほんとにふいに「死にたい、いま。」と思うけれど、それでも生きていくしかない。
そしてそういう絶望は同じ数だけの救済が必ずあって、そのバランスで私たちは生をまっとうしていくのだろうと思います。

私は不思議と春が目の前にやってくると死にたくなるのです。
それは数年前の春に鬱を発症したことだとか、病んでいたころ桜をあれほど好きだったのにいざ目の前にしても心が1ミリも動かなかったことへの絶望だけは感じたことだとか、そういった要因を思い出すからだと思います。
実際、私はいまだに春が一番心が病みやすい時期です。だれといてもsolitudeを感じる季節。

けれどその年の桜を見上げるたび、来年はどこの桜を見に行こう。来年も同じ場所に咲くんだろうな、見届けないと。という気持ちが湧いてきて、桜に絶望し桜に救済されます。
桜が咲く季節はほんとうにあっという間で生活に追われていると見逃してしまうけれど、今年も気合をいれてたくさんの桜の生を見届け、絶望し、救ってもらいます。
そうして次の年の春までは確実に生きることができる。

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