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小説 名娼明月

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2021年1月の記事一覧

「小説 名娼明月」 第47話:門演(かどづけ)の身

「小説 名娼明月」 第47話:門演(かどづけ)の身

 長屋の盲女(めくらおんな)から聞いたる三味線門演(かどづけ)のことを、その夜お秋は種々思案してみた。

 「かくまで窮迫した身で、どうして贅沢が云えよう? 飢えたる者は食を撰ぶの隙はない。幸い自分は三味線ならば一通りは弾ける。三味線の門演でも仕事には相違ない。思い切って門演を行(や)ってみよう!」

と、雄々しくも心を極めたが、

「このことが母上に判っては許されまい。よし許されたとしても、却

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「小説 名娼明月」 第48話:病勢進む

「小説 名娼明月」 第48話:病勢進む

 お秋の美容と美音とは、たちまち小倉の城下の大評判となった。
 もうあの美人三味線が来そうなものである、と日暮るれば、お秋の来るのを待ちかねる人が、そこここにあった。従って収入(みいり)も殖えて、母の病気を養い、己の口を養うのに充分であった。
 そうして、このことの評判は、長屋中に伝わらずにはおかなかった。近所のおかみさんや娘さん連は皆、お秋の身を羨んだ。
 ある晩のこと、お秋はある家で、尠(すく

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「小説 名娼明月」 第49話:阿津満(あづま)の死

「小説 名娼明月」 第49話:阿津満(あづま)の死

 阿津満(あづま)の病勢は、いよいよ募った。十二月五日は雪を以って明けた。真っ白く明け放れた空には、なお小歇(こやみ)なしに綿雪が降る。雪を踏んで寒そうに仕事に出かける長屋の人もいる。
 阿津満は、目をつぶったと思えば開き、開いたと思えばつぶりして、窓の向こうに見える雪を力なくながめていた。
 頭は惘然(ぼんやり)となってくる。そうして眼界にある総ての物が影薄く眼の底に映ってくる。それでいて古郷を

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「小説 名娼明月」 第50話:またも巡礼の旅

「小説 名娼明月」 第50話:またも巡礼の旅

 広き天地の間にただ一人取り残されしお秋は、母を失いし嘆きの涙の裡(うち)から雄々しくも奮い立った。
 今日を限りと思えば、お秋は朝から母の墓に詣でた。草花手向けて墓前に叩頭(ぬかづ)けば、さまざまの思いが一時に胸に罩(こ)み上げてきて、涙は墓前の赤い土を濡らした。さすがに勇ましい決心も、母の墓前にあっては、一個の弱い女である。悲しい思い出の数々、母についての記憶のさまざまが、一緒に雲のように湧い

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「小説 名娼明月」 第51話:禅寺の奇遇

「小説 名娼明月」 第51話:禅寺の奇遇

 今日は陽春三月の下旬である。龍造寺城下外れの、ある禅寺には、桃の花が盛りで、朝からたくさんの見物人が続いた。
 敵(かたき)の詮議に疲れた金吾は、この桃を見る気になって、昼過ぎより出かけた。なるほど、花は真っ盛りである。花間を逍遥する男女、草の上に坐して花を眺むる老若等、花に酔って一帯がいかにも陽気である。
 金吾が一渡り花を眺めて寺近く来ると、寺の縁先に坐して花見の群衆をおもしろそうに眺めいる

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「小説 名娼明月」 第52話:博多に来たる

「小説 名娼明月」 第52話:博多に来たる

 金吾は禅寺に滞在して、ひそかに参詣の家老や供の者に目を付けること三月、監物に似寄った者の影も見えぬに失望していると、ある日、龍造寺家の家老の一人が詣って来た。和尚とは昵懇(じっこん)の間柄である。
 和尚は例によって菓子など薦めて待遇(もてな)しながら、金吾のことを打ち明け、矢倉監物のことを尋ねてみた。訊かれて家老は、先ごろ、矢島監物太郎と名乗る中国浪人が仕えを求めて、この城下に来たことを思い出

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「小説 名娼明月」 第53話:夢に天女現わる

「小説 名娼明月」 第53話:夢に天女現わる

 金吾はしばらく足を博多の地に留めて監物を捜し廻ってみたが、それでも手係りがない。その年の十一月の末から旅の疲れが出て病の床に臥し、枕の上がらぬこと三十余日。十二月の末からようやく起き上がりはしたが、躯の衰弱疲労が甚だしいため旅に出ることができず、空しく火鉢の側に坐って、時の流るるのを恨んでいるうちに、新陽また巡って、天正四年の春を迎えた。

◇◇◇◇

 小倉で母を葬り、良人金吾を尋ねて巡礼の旅

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「小説 名娼明月」 第54話:蜀江(しょっこう)の錦帯(にしき)

「小説 名娼明月」 第54話:蜀江(しょっこう)の錦帯(にしき)

 驚きのあまり立上がる機勢(はずみ)に、ばたりと倒れて、お秋の夢は覚めた。
 目を開けてみれば、もう金色の光もなければ、紫の雲もない。そうして、もとより天女の姿も見えぬ。やはり、元のままの暗い廻廊である。
 暁(あけ)近い寒さは、切るばかりに躯に迫る。お秋は、まだ夢と現(うつつ)の間を徘徊(さまよ)うておる。さては、現と思いし今のあれが、全くの夢でありしかと、お秋は倒れしままに起きも得ぬ。実に、考

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「小説 名娼明月」 第55話:怪しき馬士(まご)

「小説 名娼明月」 第55話:怪しき馬士(まご)

 金吾は病気の疲れに堪えかねて、今宿の駅(しゅく)まで馬に乗ることとした。馬士(まご)は、眼丸く鼻太き、五十余りの老爺(じい)である。白髪交りの髪を蓬々(ぼうぼう)と伸ぶに任せ、皮膚の色赤黒くして、歯は乱杙(らんぐい)である。馬を叱りながら啣(くわ)え煙管(きせる)をして行くうちに、馬上の金吾に話しかけ、

 「お客様のお国はいずれで、いづこに行かれまするか?」

 と尋ねた。
 金吾は、もとよ

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「小説 名娼明月」 第56話:山賊の家

 座敷からは夜ながら、北の方、海一帯が目の下に見渡される。漁火は以前にも増して鮮やかに見られる。金吾の満足はこの上もない。
 やがて先の馬士(まご)の親爺も、足を濯(そそ)いで上がってきた。金吾の気を外らさぬためであろう。いろいろの話などして聞かせて待遇(もてな)すうちに、濁酒が運ばれ、ついで飯も運ばれた。
 馬士は、しきりに金吾に酒を薦める。病気上がりの体に障ってはならぬからと言って金吾が断るの

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【編者私記】「小説 名娼明月」ゆかりの地、博多・萬行寺に参る

【編者私記】「小説 名娼明月」ゆかりの地、博多・萬行寺に参る

令和3年の元旦の朝、明月尼(お秋)の墓のある、博多の萬行寺にお参りしました。

日々の忙しさにかまけて、最近はご法話ほもとより、なかなかお参りもできておりませんでした。

今年は元旦に、神社よりも真っ先に、萬行寺にお参りできました。

「小説 名娼明月」 第57話:監物に巡り合う

「小説 名娼明月」 第57話:監物に巡り合う

 金吾が廊下に立ちて様子を窺(うかご)うておるとも知らぬ馬士(まご)の親爺は、廊下の軒下に沿うて、向こうの方へ辿ってゆく。
 この家を山賊の住家(すみか)と見て取りし金吾は、次第に遠くなってゆく親爺の足音を案内(しるべ)に、忍びやかに後追って行った。廊下を行き詰むると、森の後に、またも一軒の家があって、そこから四方(あたり)を憚(はばか)る話し声が、しきりに洩れてくる。馬士の親爺も、この家の中に入

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「小説 名娼明月」 第58話:吶喊(とき)の声

「小説 名娼明月」 第58話:吶喊(とき)の声

 強からずといえども、敵は山賊の十余人である。阿修羅のごとく斬り廻り、監物を斬り倒し、管六の首を刎ねておるうちに、金吾も全身に十余箇所の手傷を負うて、頭から足まで血が滴っておる。なお斬りまくり、追いまくるうちに、数個の敵の屍体は、樹の根や岩の間に横たわった。ただ自分が一人、一面の血潮の中に、血刀(ちがたな)提げて突っ立ちたる金吾は、目差す敵を討ち果たせし喜びと、敵から受けし深傷(ふかで)とのために

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「小説 名娼明月」 第59話:悲しき邂逅(かいこう)

「小説 名娼明月」 第59話:悲しき邂逅(かいこう)

 百姓は、身を振るわせながら言葉を続けた。

 「世の中に、なにが恐ろしいと言っても、今朝ぐらい恐ろしい目に逢ったことはござりませぬ。
 私は、今宿在の百姓、太郎右衛門の忰(せがれ)、太郎兵衛(たろうべえ)と申す者。
 今日は博多まで用があって、一番鶏に宅(うち)を出(い)で、そこの長垂の山を越しかかりし折抦(おりから)、思いがけなくも、にわかに起こりし吶喊(とき)の声に、胆を潰して逃げ場を失い、

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