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小説 名娼明月

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2020年12月の記事一覧

「小説 名娼明月」 第24話:海浜の活劇

「小説 名娼明月」 第24話:海浜の活劇

 今は藤太も眠った。女房も眠った。お秋は独り縁端に出で、仏の加護、なおわが身の上にありけりと喜び、ひそかに蚊帳の外より藤太夫婦の寝息を窺(うかが)ってみると、正体もなく眠り込んでいる様子。

 「いよいよ時が来た!」

 と、お秋は心を決して帯を引締め、昼間よりひそかに用意していた物など、残り無く身につけ、足の音偲んで縁先より脱(ぬ)け出で、衣褄(こづま)掲(から)げて、ことさらに木下闇を辿(たど

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「小説 名娼明月」 第25話:天女の装い

「小説 名娼明月」 第25話:天女の装い

 突然船中から飛び来たりたる手裏剣は、枯枝揮(ふる)ってただ一撃にお秋を撃ち倒さんとしたる管六の足に鋭く立って、管六は砂の上に仰向きに倒れた。

 「天の助けか、仏の加護か? でも怪しきは、この手裏剣…」

 と、お秋はあまりの不思議さに、ただ呆然として海上を眺めた。
 曩(さき)に櫓の音響(おと)がして、こちらに急いだ船は、今岸に着いた。折しも苫を撥(は)ねて船中より現れし武士、己(おのれ)の投

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「小説 名娼明月」 第26話:船中の酒宴

「小説 名娼明月」 第26話:船中の酒宴

 遊女百人と美酒数十石を積み込んだる三十余艘の船は、いよいよ室の津の港を解纜した。その後に残ったのは兵糧船であるが、これは明日の夜出帆して、まず尼崎の沖合まで到り、先発船の報知を待って進むことと定め、将卒の手配りから、その他の非常準備まで残りなく整えて、出帆の時の来るのを待った。
 三河守と一秋は、選り抜きの豪傑三十余人とともに、船頭姿に身を窶(やつ)し、それぞれ遊女の船に乗り込んで、指揮万端の任

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「小説 名娼明月」 第27話:お秋の手柄

 更けゆく夜は二時に近い。織田勢の夢を載せたる安治川は、音もなく流れて、天も地もただひっそりと鎮まりかえっている。
 お秋は船の上に立って、前後を注意深く見廻した。目覚めた番兵もおらぬらしい。これ幸いと船から岸に上がれば番所がある。そうして番所の壁に大事な鍵が懸けてある。お秋はこの鍵奪い取るが早いか、岸に戻って、石崖の下を透かして見た。

 「確かに鎖の錠がある! わが外さねばならぬは、この錠であ

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「小説 名娼明月」 第28話:一秋の戦死

「小説 名娼明月」 第28話:一秋の戦死

 五百艘の兵糧船は、お秋の手柄によりて、織田勢の夢の中を上っていった。やや遅れて後を追ったのは、二百艘の兵糧船である。白帆を連ねて勇ましく上り行くを、それと認めた織田勢の狼狽は一通りではない。兜よ鎧よと騒ぐ間に、先頭の十二艘からは一時に小銃を浴びせ掛けたから、天地も裂けるような響きである。
 織田勢の兵船五艘は、混雑のあまり錨巻く時間もなく、綱押し切って逃げ去った。
 この騒ぎの中に織田勢の他の兵

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「小説 名娼明月」 第29話:気にかかる筑紫(つくし)の空

「小説 名娼明月」 第29話:気にかかる筑紫(つくし)の空

 石山よりの急使は、阿津満母娘を慰めて大阪へ帰った。大阪からの書状に添えたる一秋の遺髪は、窪屋家の菩提寺に恭(うやうや)しく葬られた。朝な夕な供ゆる仏壇の線香の煙は、母娘の涙を誘うて、慰めん途(みち)もない。

 「一人で淋しく待ち暮らしたのも、一秋殿無事の報知(しらせ)を聞いて喜びたいばかりであった。無事で帰りしお秋の顔を見て喜ぶ暇もなく一秋殿の死を聞かねばならぬものであったらば、いっそう病中に

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「小説 名娼明月」 第30話:悪僕要助

 「今朝より、どうやら仔細ありげな和女(そなた)の物案じ、気がかりでならねば、包まず聞かしてたまわらぬか?」
 
 との優しい母の言葉に、お秋はいままで母に打明けずにいたことが、何か大罪でも犯したように心苦しく思われ、これがために母の心を悩ませしことを深く謝したあとで、思い切って己(おのれ)の決心のほどを打明けた。
 母はもとより驚かぬわけにはゆかなかった。

 「とはいえ、主人も戦死したる今日、

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「小説 名娼明月」 第31話:旗亭の二階

「小説 名娼明月」 第31話:旗亭の二階

 「そういうお前は要助ではないか!」

 と驚いて立停(たちど)まる和平次を、要助はニヤニヤと笑って側に歩み寄り、急にしょげこんで、殊勝らしい顔を作った。

 「俺の不所存のことは聞いたであろう? のう和平次、あんなことをしでかしたのも、ほんの一時の出来心からじゃ。後から思い出してみれば、ただもう恥ずかしくて生きてもおられぬ心地、いまさら奥様やお嬢様にお目にかかれる義理ではなけれど、一度はお逢い申

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「小説 名娼明月」 第32話:母娘の悪運(前)

「小説 名娼明月」 第32話:母娘の悪運(前)

 匹夫の酒は必ず間違いを生む。お伴を終わるまでは一滴も口にいたしませぬと主人に対してなせし禁酒の誓いを、要助から待遇(ふるま)われし酒によりて破りし和平次は、正体もなく酔うた。そうして要助から尋ねられるにまかせて、何もかもべらべらと喋ってしまった。

 「そうだのう、まず俺の見るところでは、両掛の底に入れてあるのが黄金で三百枚は大丈夫。それから奥様の胴巻にも小粒で三十両は間違いなかろう。その両掛は

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「小説 名娼明月」 第32話:母娘の悪運(後)

「小説 名娼明月」 第32話:母娘の悪運(後)

 夜は沈々と更けて、庭の虫の音が浸(し)みるように枕に通うて来る。要助はじっと頭を擡(もた)げた。和平次の寝息を窺(うかが)ってみると、和平次は前後も知らず寝込んでいる。むくむくと起き上がって奥の間を覗けば、阿津満母娘のスヤスヤと眠っている寝姿が、枕元の有明行灯の灯(ひ)でよく判る。隣室に耳傾くれば、家(うち)の者も熟睡をしている様子。
 この時だと思って、和平次から聞いておいたる次の室(ま)の押

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「小説 名娼明月」 第33話:和平次の自刃

「小説 名娼明月」 第33話:和平次の自刃

 「奥様に対する誓いを破って酒を飲んだことは、実に取り返しのつかぬ失敗であった。それにしても、昨夜(ゆうべ)要助とは、どのあたりで別れたのだろう?」

 と和平次は、朧気(おぼろげ)な自分の記憶を辿っているうちに、要助が自分と一緒に来て、自分の側に寝たことを思い出した。

 「おお、そうだ! 自分の側に寝たのであった!」

 と思って、頭を擡(もた)げて自分の側を見てみると、寝ておらねばならぬはず

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「小説 名娼明月」 第34話:明日からの旅

 夜は明け放れた。今日は宮島へ参詣せねばならぬというので、阿津満母娘は臥床(ふしど)に放れると、その仕度に忙しい。
 それにしても、和平次はまだ臥(ね)ているのかと思って、次の間を覗いてみれば、もう起きてどこかに行ったものらしく、布団反ね除けし寝床だけ残っている。それでも母娘は別段怪しみもせず、下女が縁先に廻してくれた水で顔を洗い、再び次の室(ま)を覗いたが、やはり和平次の姿は見えぬ。便所かと思っ

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「小説 名娼明月」 第35話:泣き明かせし一夜

 一度古郷に帰り、旅金を拵(こしら)えた上で再び旅に出よう、と云う母阿津満の考えは、実に思慮ある安全の策ではあれど、一刻も早く筑紫の地に渡って、夫金吾を捜し出さねばならぬという決心のお秋にとりては、せっかくここまで進んだ旅を、たとえ災難のためとはいえ、空しく古郷に引返すに忍びなかった。
 必ず金吾に巡り合うことのできるはずのものが、それがために一生逢わずに終わるような心持ちがするのである。
 こと

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「小説 名娼明月」 第36話:巡礼の第一日

「小説 名娼明月」 第36話:巡礼の第一日

 往来(ゆきき)の馬の鈴の音に、夜は朗らかに明けた。阿津満母娘は平生(いつも)よりも早く起きて出立(しゅったつ)の用意にかかった。笈摺(おいずる)を着け、脚絆甲掛(きゃはんこうかけ)を穿いて、菅笠(すげがさ)を戴けば、昨日に変わりし母娘の巡礼姿。宿の主人(あるじ)夫婦は、二三日前、母娘が下僕和平次に両掛担わせて着いたときの麗々(りり)しき姿と、今の気の毒なる姿とを思い比べて、二人の身の上を泣いた。

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