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「小説 名娼明月」 第33話:和平次の自刃

 「奥様に対する誓いを破って酒を飲んだことは、実に取り返しのつかぬ失敗であった。それにしても、昨夜(ゆうべ)要助とは、どのあたりで別れたのだろう?」

 と和平次は、朧気(おぼろげ)な自分の記憶を辿っているうちに、要助が自分と一緒に来て、自分の側に寝たことを思い出した。

 「おお、そうだ! 自分の側に寝たのであった!」

 と思って、頭を擡(もた)げて自分の側を見てみると、寝ておらねばならぬはずの要助の姿が見えぬ。便所行きかと寝床から起出て便所の方を覗かんとするとき、足元に踏んだ物がある。怪しいなと思って行灯の火影に照らしてみれば、綺麗な着物である。しかも見覚えあるお嬢様のお召である。

 「どうして、こんなところへ、こんな着物が…?」

 と不審に思って押入に目を注いでみれば、錠は元の通り閉ざしてあって、何の異常もないが、横手の行灯部屋の開き戸が開いている。合点行かじと、和平次は手燭を握(と)って、その部屋の中を覗いてみて驚いた! 押入との隔ての壁板は揑(こ)じ放されて、両掛は全くの空虚(から)になっている!
 和平次は、たちまち色を失って、その場に倒れた。

 「さては、悪徒要助め! 改心せしと見せかけ油断させ、奥様方の金と着物を盗みしか!」

 と、和平次は気も狂わんばかりになって庭先に飛び出せば、櫨木(はぜのき)畑の方へかけて新しい足跡がついている!
 きっと要助の足跡に相違ないと、この足跡をずっと辿って行ってみると、ついに足跡は消えて、どこに行ったものか判らぬ。ただもう、がっかりしてしまって、和平次は畑の中に坐った。

 「あの敏捷(すばや)い要助である。人から捕まえられるような下手な真似はすまい。もうきっと遠方に逃げ延びたものに相違ない。
 ああ、申し訳ないことになった! 生きてはおられぬ! 一層のこと、死のうかしら?
 死ぬのは容易(たやす)いことながら、こうと知ったら奥様お嬢様がどんなに嘆かれるであろう? これから先お二人がどんなに難渋されることであろう?」

 と思えば、すぐには死ねぬ。
 とにかく一応宿に帰ってと、和平次は自分の室(へや)に力なく引き返してはみたが、さて自分の力では一文の金でも、できるものではない。そのうちに夜は白々と明けてくる。
 やがて奥様方が覚醒められしときの驚きと力落としと悲しみ、和平次はそれを想像してみて身を慄(ふる)わせた。

 「どの顔下げて、自分は奥様方に逢われよう。どうしても合わせる顔はない。もう死ぬより外(ほか)に途(みち)はない! 死んで自分の罪を謝するより外は途はない!」

 と正直な心に一途に思い詰めた。
 和平次は、ひそかに硯と紙とを取り出したが、頭が混乱して考えをなさぬ。乱るる心をようやく押し鎮めて筆を握ると、まず昨夜(ゆうべ)偶然要助と道に逢ったことを、廻らぬ筆で書いた
 それから、要助が改心するから詫びをいれてくれと頼んで、無理強いに自分を料理屋に引っ張っていったこと、誓いを忘れて酩酊の末、要助の望むがままに、深夜一所に連れ帰り、相並んで就寝したこと、自分の寝息を窺(うかが)い、要助が両掛の金子衣類、残らず盗み去ったこと、及びその申し訳のために、自刃して果つることを順々と書いて、最後に、

  「筑紫までは、まだまだ遥かなる道中なれば、ご不自由いかばかりかと、それのみが気掛りにて候」

 と結んで筆を擱(お)いた。
 書き終わるや、和平次は、阿津満母娘の寝室(ねま)を臥し拝み、夜の放たれぬうちにと、急ぎ庭先に下り、奥庭のところに行って、我と我が咽を短刀で貫き、紅(あけ)に染んで斃れた。

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