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「小説 名娼明月」 第25話:天女の装い

 突然船中から飛び来たりたる手裏剣は、枯枝揮(ふる)ってただ一撃にお秋を撃ち倒さんとしたる管六の足に鋭く立って、管六は砂の上に仰向きに倒れた。

 「天の助けか、仏の加護か? でも怪しきは、この手裏剣…」

 と、お秋はあまりの不思議さに、ただ呆然として海上を眺めた。
 曩(さき)に櫓の音響(おと)がして、こちらに急いだ船は、今岸に着いた。折しも苫を撥(は)ねて船中より現れし武士、己(おのれ)の投げし手裏剣に、女の命一つ援(たす)けし嬉しさに、岸に飛び下り、左手に携えたる含灯をお秋に差し付けて驚いた!
 覚えず、

 「娘ではないか! お秋ではないか!」

 と叫んで抱き寄せた。
 しかし、あまりの驚きと疲れとのために喪心したようなお秋は、すぐにそれを自分の父一秋であるということを見得なかった。

 「これ父であるぞ! 父の一秋であるぞ!」

 と念を押されて、お秋はひしと一秋に抱きついた。
 お秋は何と云ってよいか言葉も出ぬ。ただ熱い涙が罩(こ)み上げてきて、お秋の青白い頬を流れた。父娘ともに夢かと疑ったのも無理はない。

 「父上は、どうしてここには来合わされました?」
 
 「お秋はどうして、こんなところには来ておったのか?」

 と、嬉しさ余って先を争って両方から訊き合った。
 そうして一秋は、お秋を迎ゆるため備中西河内へ帰国の途中、この天城に着いたこと、お秋は、一秋が大阪石山城から芸州毛利家へ使いに行く途中、備後鞆の津から発した飛脚によって、一秋の帰途(かえりみち)を備前の牛窓に待って消息を聞こうと思って故郷を発った途中、悪漢の手に陥り、ここまで来たことを話すと、二人とも危機一髪のところで期せずして出合った互いの奇縁を、驚き、かつ喜んだ。
 
 「味方の石山城兵は、織田勢の重囲に陥って、すでに餓死に瀕している。一刻も早く播州室の津へ引き返さなければならぬ」

 と、一秋はお秋と一緒に、すぐに元の船に乗り移り、西河内の家に帰るのを止めて、暁近き夏の海を、室の津に向かって漕ぎ出した。
 船の中で一秋は、大阪川口の鉄鎖(くさり)を外すべき難役を吩(い)いつくれば、お秋は喜び勇んで引受けた。
 一秋父娘の船は、その夜十時過ぐる頃、室の津へ入った。それと聞いて、七里三河守以下の将士は、いずれも一秋のあまり早く帰って来たのを驚き怪しんだ。
 それで一秋は、まず娘お秋を三河守に紹介(ひきあ)わせると、お秋が国を出てから天城の岸で出逢ったまでの概略(あらまし)を一通り話し、かつ、すでにお秋に川口の難役を決心させたことを報告すると、並みいる将士はいずれも、お秋道中の災難を気の毒に思い、かつその健気なる決心を推賞した。
 その夜お秋は船中に泊まって、これまでの疲れを癒やし、翌朝室の津の町に上陸し、遊女町に行って楼主等に逢い、着物その他万事の打合せをなし、着物の着こなしから髪まで遊女そっくりに装い凝らせば、天のなせる麗質と、他より真似難き一種の気品は、遊女そのままの濃艶なる装いと相俟って光を発するばかり。三百の遊女等は、ただ目を睜(みは)り、お秋の美しさに驚き呆れて見入った。この繊細(なよや)かな美しいお秋の胸に、川口の鉄鎖(くさり)を外すべき盤石のごとき決心を秘めているとは一人も知らぬ。
 大阪石山城の急使が来てから、もう五日を経った今は、寸刻の猶予はならぬ、と、その夜三十余艘の船に三百の遊女と数十石の美酒を積み入れて、室の津を出発した。

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