「小説 名娼明月」 第35話:泣き明かせし一夜

 一度古郷に帰り、旅金を拵(こしら)えた上で再び旅に出よう、と云う母阿津満の考えは、実に思慮ある安全の策ではあれど、一刻も早く筑紫の地に渡って、夫金吾を捜し出さねばならぬという決心のお秋にとりては、せっかくここまで進んだ旅を、たとえ災難のためとはいえ、空しく古郷に引返すに忍びなかった。
 必ず金吾に巡り合うことのできるはずのものが、それがために一生逢わずに終わるような心持ちがするのである。
 ことに、先祖から伝わってきた田地である。このくらいのことに売払っては、先祖に対し、また亡くなった父に対して相すまぬ。
 よしまた帰って金子(かね)を拵え旅に出るとしても、か弱い女の身で大金を懐中して旅をするのは、かえって危険の怖れがある。
 それより、いっそうのこと、今度の災難を幸い、これから母娘一緒に巡礼に身を窶(やつ)し、今日は五里、明日は三里と、路々(みちみち)の家に合力を仰いで気永く行ったならば、たとい少々の不自由はあっても、かえって心安く心配なしに旅ができはすまいか。
 かつまた、幸い夫に巡り合うことができて故郷に帰り行かん暁、少しぐらいの田地がなくては、年老いたる母上を養いまいらすることもできぬ。
 
 「これはどうあっても田地を売ってはならぬ! これから巡礼になって出て行こう!
 それにしても、母上が、これをご承知くださるであろうか?」

 と言葉優しく、お秋は自分の考えを母に語った。

 「かれこれ思い巡らせば、災難もまた因果の一つ。過去の悪行と諦め、遠くもあらぬ筑紫まで、姿を巡礼に窶(やつ)して行きたまうお心は、おわしまさぬか?」

 との思い入ったるお秋の言葉に、阿津満も深く動かされた。
 なるほど、娘の言うところにも一理がある。多少の不自由や苦労、娘のため、家のためとあれば、それも忍ぼう。
 と、ここに、いよいよ母娘は巡礼姿となって旅を続けてゆくことととなった。
 翌日母娘は、巡礼姿となるに要るべき、さまざまの品物を買い需(もと)めた。笈摺(おいずる)菅笠(すげがさ)から脚絆(きゃはん)甲掛(こうかけ)の類まで、残りなく準備をすれば、後に残った金は小粒わずかばかりで宿料の払いにも足らぬ。宿に対して済まぬわけではあれど、今日(こんにち)の母娘の身に取りては、この上どうすることもできぬ。
 阿津満は、宿の主人の居間に通り、一方(ひとかた)ならぬ厄介をかけたることを謝し、

 「実は宿料の外に相当の謝儀をなすが当然なれど、知らるるとおりの事情なれば、思うことも叶いませぬ。今日の買い物を済ましたる残りの金、わずかこれ程なれど、いずれまたご報恩の時もあるべければ、これにてお済ましくだされ。不足の分は所持の品にても差し上げましょう」

 と云って、金入れのまま差出す阿津満の金子(かね)を、主人は、

 「私の家(うち)にお泊り中のご災難なれば…」

 と云って押し戻し、一文も受けぬ。
 旅にて受くる親切の、しみじみ嬉しさに、母娘はこれを謝する言葉も知らなかった。
 倹約(つつま)って使えば、この金で十日の旅は続けられる。主人の厚意に従って、その夜は泊まり、翌朝発つことに極(き)め、気苦労心配に身も心も疲れ果てて、二人は枕に着いたが、さまざまのことが思い出されて眠られぬ。これまで下僕や女中に傅(かしず)かれ、浮世の苦労も知らで過ぎし身が、明日からは大道の軒々(のきのき)に立って、合力仰がねばならぬのである。互いに心配をかけまじと思えばこそ、阿津満もお秋も眠りを装うてはいしものの、胸は砕くる思いに乱れて微睡(まどろ)みもならず、一口も語らぬままに、母と娘は一夜を泣き明かした。

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