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「小説 名娼明月」 第26話:船中の酒宴

 遊女百人と美酒数十石を積み込んだる三十余艘の船は、いよいよ室の津の港を解纜した。その後に残ったのは兵糧船であるが、これは明日の夜出帆して、まず尼崎の沖合まで到り、先発船の報知を待って進むことと定め、将卒の手配りから、その他の非常準備まで残りなく整えて、出帆の時の来るのを待った。
 三河守と一秋は、選り抜きの豪傑三十余人とともに、船頭姿に身を窶(やつ)し、それぞれ遊女の船に乗り込んで、指揮万端の任に当たったのである。
 三十余艘の遊女船が、翌朝、摂州成尾崎の辺まで進むと、七里三河守は、念のために、敵の川口の守備を一通り見ておこうと、一艘の船に酒五六挺と尠(すくな)からぬ下物(さかな)を罪、三人の船頭とともに、安治川口に行ってみたが、敵の織田勢は、無事に苦しんで甲冑を脱いで寝たり、船首に集まって酒宴を開いたり、海に飛び込んで游いだりしている。

 「これはうまい!」

 と、三河守の船がだんだん近づいて行くと、向こうから呼び咎めて、

 「どこに行く船か?」

 と聞く。
 待ってましたと云わんばかりに、三河守は田舎訛りの言葉に憐れ味を持たせ、

 「私どもは、尼崎の百姓でありまするが、戦争続きにて田畑の手入れもできず、もう妻子抱えて飢ゆるばかりとなりましたれば、急に思いついて船商人に商売換えを致しましたる者、何分のご贔屓(ひいき)を!」

 と、哀願すれば、飲みたい食いたいの織田勢は、すぐに三升五升と量らせて、そこに一団ごとに一団の酒宴が始まった。
 かくて三河守は、敵の船から船と売り歩いて様子を窺(うかが)っているうちに、半日と経たず売り切ってしまった。三河守は事のますます注文どおりに行くを見て心竊(ひそ)かに喜び、

 「酒ばかりは女の酌でなければ味無きもの。明日は綺麗な酌婦を大勢連れて参りましょう!」

 と云えば、いい加減に醉いが廻った織田勢は大喜びで、

 「昼は大将の目が恐ろしいから、夜に入って間違いなく来い!」

 と念を押し、自分たちの方から迎いにでも出兼ねまじき勢いである。三河守は、

 「いよいよ本望成就!」

 と勇んで、わざと日を暮らし、川口に漕ぎ寄せてみると、鎖のところには番卒がおって厳重に見守っている。三河守は明日の方略を胸の中に巡らしながら、味方の船に帰った。
 翌日はまだ夜明けぬ先から総ての用意に掛かり、間もなく準備万端整えて、日の傾くを待ち兼ねた。
 七時近きころ、三十余艘の遊女船は、残照を浴びて絵のように漕ぎ出した。黄昏れるころ、安治川口に漕ぎ付くれば、織田勢はもう昨日の約束を忘れず待ち兼ねている。

 「酒をもって来い!」
 「女をくれ!」

 とあっちやこっちの舷(ふなべり)から争って呼び立てた。
 この日、三河守は、わざと船中に控えて外には出ぬ。酒よ女よと織田勢からの注文は雨のようである。あっちに八人、こっちに十人、遊女は徳利とともに、絶えず敵の船に呼び上げられて、川口までこちらの船が進んだ時は、もうわずかに三四樽の酒と四十余人の遊女を残すばかりであった。
 たた気掛りなのは、肝腎の鎖番所である。今夜が始めであるが、もしや疑われるようなことはあるまいかと気を揉んで行くと、案外にも、すでに前日の噂が味方から伝わって、ここにも酒と女が来るのを待ち兼ねていたところである。もとより微塵も疑わぬ、たいした人気である。そうして、たちまちの間に酒も遊女も品切れとなった。
 その夜、三河守・一秋ら二十余人は、

 「また明朝未明に参りますれば、酌婦はそれまでお預かりください」

 と云って立ち去った。
 その後に、鎖番所の岸の柳を小楯に取って残った一艘の船がある。静かに現れし妖艶花を欺く一人の美人、用心深く四辺(あたり)を見廻した顔には、屹(きっ)とした決心の色が漲っている。遊女の扮装(いでたち)したるお秋である。

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