「小説 名娼明月」 第34話:明日からの旅

 夜は明け放れた。今日は宮島へ参詣せねばならぬというので、阿津満母娘は臥床(ふしど)に放れると、その仕度に忙しい。
 それにしても、和平次はまだ臥(ね)ているのかと思って、次の間を覗いてみれば、もう起きてどこかに行ったものらしく、布団反ね除けし寝床だけ残っている。それでも母娘は別段怪しみもせず、下女が縁先に廻してくれた水で顔を洗い、再び次の室(ま)を覗いたが、やはり和平次の姿は見えぬ。便所かと思って声をかけたが、便所でもない。
 少々不審に思って、宿の女中に訊いてみると、和平次は昨夜夜更けに、見知らぬ男を連れて酩酊して帰ってきたとのことである。

 「連れとは、何者であろう? あれほど固く禁酒を誓っておきながら、何しに酒なんぞ飲んだであろう?」

 と、阿津満母娘は、いよいよ不審で堪らず、もしやと思って押入の前に行ってみれば、昨夜そのままに錠は固く閉ざして異状はない。
 いずれとも判じかねて母娘が差向いに坐っていると、奥庭の方にあたって、俄(にわ)かに騒がしい人声がする。宿の主人と泊り客とが相継いでその方へ飛んで行く。
 あまり啻(ただ)ならぬ模様に母娘も誘われ、

 「いったい何事であろう?」

 縁先へ下りかけた途端に、宿の下男が顔色を変えて飛んできた。そうして、

 「お連れのご家来が、、、奥庭の隅で自害しておられる!」

 と報じた。
 母娘はびっくり、庭下駄穿(は)く暇もなく、夢のように飛んでいけば、無惨にも和平次は、短刀で咽喉(のど)刺し貫いて、俯向きに斃(たお)れている。母娘は狂気のようになって和平次の名を呼び立てたけれども、もう縡(こと)切れて返事がない。
 
 「古郷遠いこの心細い旅の空で、何とて自害などしてくれたであろう? 死ぬる前になぜ事情を打明けてくれなかったであろう?」

 と母娘が気も遠くなるほど嘆き悲しむを、他の者は慰める言葉も知らなかった。そのとき、側の松の枝に縛りつけたる一封の遺書を発見した者がある。まさしく和平次の筆跡である。阿津満が胸騒がして読み下せば、要助のことが詳しく書いてある。
 重なる驚きに母娘は心臓が破れるかと思われ、すぐと自分の室(へや)に駆け戻って、押入の錠を外してみれば、隣室なる行灯部屋との間の壁板が破れて、両掛の中には金も衣類もない、全くの空である。
 母娘は、ただ失心した者のようになって顔を見合うばかりである。知る辺(べ)も所縁(ゆかり)もない旅の空に、二人が杖と頼みし和平次は遺骸(なきがら)となり、旅の命の綱なる金子(かね)と着物は要助に盗まれ、二人はただ、着の身着のままの姿となって残った。

 「明日をどうしよう? この旅は、どうなるであろう?」

 と二人の嘆きは、さらに明日からのことを思わねばならぬ身の上となった。

 「我らに何の悪因あれば、かくは悲しき憂き目を見ねばならぬか! 神もあり仏もありと云う世に、さりとは、あまりに辛き運命(さだめ)である!」

 と嘆き悲しむうちには愚痴も出る。
 
 「けれども、今は泣いてもおられぬ」

 と母娘は懐中に残りし僅かばかりの金の中(うち)から、桶やその他の物を買い求め、宿の主人の世話で、和平次を近傍の寺に葬った。
 和平次の遺骸(なきがら)は葬ったが、さてこれからの旅をどうしたらよいか。
 
 「もはや秋も暮れる。寒さは一日一日と増してゆく。金も着物もなしでは、この上の旅は続けられぬ。せっかくの決心をして出かかった旅であるから、空しくこれから古郷に帰りたくはないが、古郷に帰れば金子(かね)こそ無けれ、人に預けある田地を売っても三四百の金はすぐ手に入る。これから古郷(くに)へ帰って金を作った上で、再び筑紫の旅に出るがよくはあるまいか?」

 とは、思慮ある阿津満の考えである。


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