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中編小説『二人』

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中編小説『二人』(4-1)

中編小説『二人』(4-1)

 激しい抗議を覚悟していた。顔を張られても仕方がない、と思っていた。あるいは私の存在を消して、例の固い沈黙の内側に籠る、と思っていた。そうはならなかった。話しかければ、薄いながらも応える。ものを出せば残さず食べる。事実を消化していない。嚥下さえしていない、と思う。弁明の機会は与えられず、膠着したまま償いの言葉は宙に浮かぶ。
 ノゾミは、夜、啜り泣くようになった。私の疲弊した体は眠りを欲しているが、

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中編小説『二人』(3-3)

中編小説『二人』(3-3)

 オーナーへの回答の期限はとうに過ぎている。避けていたわけではない。別の店舗で起きたトラブルの対応でオーナーが店に顔を出さず、私は私で忙しさにかまけて電話をしなかった。結果的に待つという名目で先延ばしになった。私の腹は決まっている。頭の中で問題が絡まり、解きほぐすことができない苛立ちに悩まされてきたが、よくよく考えればそう複雑な話ではない。母親から日に何度も催促があるのだから、送金する以外に選択肢

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中編小説『二人』(3-2)

中編小説『二人』(3-2)

 今日も隣の部屋の女がすすり泣いている。数日に一度は泣く。何をそれほど泣くことがあるのかと不思議に思う。私には泣くほど悲しいことがあるように思えなかった。こちらの生活音も漏れ聞こえているはずで、壁の薄さを気にせず泣ける自己愛の強さに呆れる。
 壁に指先を当てると、ひっかくようになぞる。続けて軽く指で叩く。壁の向こう側にも明らかに聞こえるように少しずつ強くしていく。最後には拳を作って、叩く。
「うる

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中編小説『二人』(3-1)

中編小説『二人』(3-1)

 二人しかいないのだから、片方が黙れば、もう片方も黙るしかなかった。口数の少ない日が続く。話しかけても反応は乏しい。遅れて頷きはするが声は発しない。カズキを連れて散歩に出ても、ファミリーレストランで食事をしていても黙り通す。切り替えのできない不器用さを哀れに思いながら、自責心の強さが独り善がりに思え、こちらの言葉が一向に響かぬことに苛立ちを覚える。これまでも塞ぎ込むことはあった。数日経てばぽつりぽ

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中編小説『二人』(2-9)

中編小説『二人』(2-9)

 電車の中で、抱えた荷物からテーマパークの帰りと思しき親子を見かける。長椅子に深く座った母親は疲れの浮かんだ表情で、うつらうつらと眠りに誘われながら、隣に座る女の子がのべつ話しかけるのをかろうじて相槌で受け返す。女の子は母親の疲れた様子を気に留めず、そのうち母親が首を落として舟を漕ぎ始めると、膝を揺すって起こしにかかる。そのやり取りを眺めながら、私は色褪せた日記帳をめくるように、自身の家族旅行の情

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中編小説『二人』(2-8)

中編小説『二人』(2-8)

 それから私たちは、日程を決めると、宿泊する場所を探し始めた。駅前の漫画喫茶の狭いパーティションの中で二人身体を寄せて、パソコンの画面に並んだ宿の一覧から自分たちの条件に合うものを一件ずつ調べていった。犬の同伴が可能な宿は、事前に想像していたより多く、絞り込むのに難航した。互いに拘りがないが故に決めきれず、画面を見つめながら二人して途方に暮れる。パーティションの向こう側から時折漏れる控えめな咳の音

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中編小説『二人』(2-7)

中編小説『二人』(2-7)

 9月も末になり、半同棲を始めて二ヶ月経った。当初感じた新鮮さは、判で押したような日常の反復によって次第に色彩を失い、穏やかな単調さに変わる。ノゾミの生活に、私は部外者として邪魔している身分であったが、ノゾミは何も言わず、ただ彼女の作り出す静謐の中でじっとしていればよかった。
 ある日、私はこの生活をこのまま継続するには物質的な役割を担う必要があると思い、生活費の一部を出すと提案した。「こちらがお

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中編小説『二人』(2-6)

中編小説『二人』(2-6)

 私にはもう半分の日常がある。
 立ち並ぶ家々の陰に陽が隠れて、微かに耀う紅が間もなく消える時刻、私は、数日分の着替えの入ったボストンバッグを下げて、玄関のドアの前に立つ。ドアノブを掴んだ手は押せばふにゃりと折れてしまいそうなほど力ない。他人の家を前にしたときのように、耳を澄まして家の中の様子を窺う。父親は、帰宅して、居間のテーブルに夕刊を広げ、紙面の端から端をくまなく読んでるだろう。母親は、事前

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中編小説『二人』(2-5)

中編小説『二人』(2-5)

 夜勤と日勤を不規則にこなす生活を数年送り、眠りは融通のきかない他人のようなものになる。寝付きは悪く、それに連れて寝覚めも悪いので、いつまでも布団の中で愚図つくことになる。空腹を覚えれば、布団から手を伸ばし、床に放り出された食いかけの菓子を貪る。母親が退院してから、口に合わぬものを毎日食べさせられ、痩せるものと思っていたが、存外に体重が増えたのはこの悪習のせいだった。もっとも出されたものは残すわけ

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中編小説『二人』(2-4)

中編小説『二人』(2-4)

 お互いに、相手の素性を深くは問わず、自らも明かさなかった。取り決めをしたわけではない。ノゾミの本心は定かではないが、私は意図的に避けていた。こちらが明かせば望まなくても返報を押し付けることになる。それは畢竟、ノゾミがどこの誰で、この家のこの一室になぜ一人で暮らしているかに行き着く。
 一時の興味に惹かれ、何重にも絡まり、ほどく糸口さえ掴めない問題を引き寄せることを私は恐れた。長い時間を共に過ごせ

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中編小説『二人』(2-3)

中編小説『二人』(2-3)

 壁を通して女の啜り泣く声が聞こえる。遠くで流れる水音のように、夜の静寂の底をゆったりと、それでいて確かな輪郭を持つ音色となって耳に滴り落ちる。いつの頃から泣いているのか、声は呼吸に似た緩急を作り、浅くなった眠りと奇妙にシンクロして、全身に馴染んでいく。私の意識は覚醒に向かうことなく声と一緒に宙空を揺蕩い、どこか自身の体を見下ろすような、体の在り方を探るような、茫漠とした感覚に囚われる。
 隣で横

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中編小説『二人』(2-2)

中編小説『二人』(2-2)

 何度も通ううち、知らぬ道から通い馴れた道へ変わってゆき、それにつれて迷うことへの不安は薄れ、代わりに通うことの意味を問うて、時間を埋めるようになる。最初は風景に拘って眺めていたが、風景の側から何も訴えるものがなくなると、最初から最後まで単調に流れ、やがて色も形も褪せていく。
 不思議なことに、通りで人とすれ違うことはなく、たまに建物と建物の間の狭い通路に、背中を向けて振り返る猫を見かけると、やは

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中編小説『二人』(2-1)

中編小説『二人』(2-1)

 数日後、私とノゾミはファミリーレストランで、テーブルを挟んで向かい合っていた。ノゾミは出会った当初のような硬い張り詰めた表情をして俯き、自らの指先に視線を凝めている。私もまたその美しい造形をそぞろに眺めながら、話し出す頃合いを計っている。

 指定された待ち合わせ場所は、職場のある終着駅から数駅手前にある、急行の止まらぬ駅だった。毎日通り過ぎていたが、車窓からちょうど同じ目線に見える、性病専門病

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中編小説『二人」(1-5)

中編小説『二人」(1-5)

 扉の向こう側に人影が立ち、ようやく自己言及のループから意識が切り離される。壁に掛かった時計を見ると、短針が12時を指す。私は気持ちを切り替えようと、頬に力を入れ、迎え入れる顔を作る。扉が開き、ノゾミがまだらに濡れた姿で立っている。
「いらっしゃいませ」
 一瞬顔をこわばらせ、そして「また来ました」と言う。その言葉に妙にホッとさせられる。回数を重ねるうち、ノゾミからも少しずつではあるが気安い言葉が

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