中編小説『二人』(2-7)
9月も末になり、半同棲を始めて二ヶ月経った。当初感じた新鮮さは、判で押したような日常の反復によって次第に色彩を失い、穏やかな単調さに変わる。ノゾミの生活に、私は部外者として邪魔している身分であったが、ノゾミは何も言わず、ただ彼女の作り出す静謐の中でじっとしていればよかった。
ある日、私はこの生活をこのまま継続するには物質的な役割を担う必要があると思い、生活費の一部を出すと提案した。「こちらがお願いしたことですから、舞子さんはただ私と一緒にいてくれればいいから」とノゾミはやや不安げな様子で以前と同じ言葉を繰り返した。ノゾミにはノゾミの作法がある。無理に押し通せばノゾミの中で成立している釣合いを崩すことになる。とはいえ、居候の身分で甘んじるのも心苦しく、自身との折り合いがつかない。もう一度、控えめに「一緒に暮らしていて、一方が支払わないのはフェアじゃないと思うし、私にも払わせて欲しい」と重ねると、ノゾミはしばらく考えて、「それじゃ、子犬のごはん代を出してください」と言う。
「もちろんごはん代は構わないけど、それだけだと金額的に全然フェアではないよ」
「でも、ごはんは大切ですから」
子供じみた回答に呆気にとられながら、出かかった反論の言葉を飲み込む。私にはまだ理解できていないノゾミの作法があると思い直す。しかし、回答の稚拙さ故、考えの真意を掴むことができない。私は尋問の調子にならないよう、笑顔を作って労わるように話す。
「そうね、ごはんはたしかに大切。子犬にとっては生きるために必要なものだからね」
「はい、子犬にとって大切なことだから。だから舞子さんがごはんのお金を出してくれるのであればうれしい」
ノゾミの蒼白い頬に微かに赤みが差す。思ったことを嘘偽りなく話しているのだろう。素直に受け止め、拘ることではないのかもしれない。それでも、未だ子犬を<子犬>と呼んでいることが躓きの石となって、考えがはたと立ち止まる。私とノゾミと子犬との関係性が特別な意味を帯びていることはノゾミのこれまでの言動から浅からぬ理解をしたつもりでいたが、いざ手を差し出して掴み取ろうとすると、ひょいとかわされ宙を掴む。掌には得体の知れ無い不確かさだけが残る。その原因はノゾミだけではない。私にもある、と思う。
私にとって根幹となる関係性の土台が今ではぶよぶよに崩れて、原型を留めていない。当たり前のように身を委ねていた<家族>という関係性は今ではアメーバのごとく輪郭を曖昧にして、そこに連なる自分自身を曖昧にする。不確かなものに不確かなものを重ねたところで、不確かさしか残らない。
別の日、簡易的な夕食を済ませ、私はうつ伏せになって店から持ち帰った雑誌を読んでいると、ノゾミがケースから子犬を出して胡坐をかいた膝の上に載せてブラッシングを始める。子犬はいつもであれば腰を捻って嫌がるが、その時は大人しく身を委ねている。
「めずらしいね、熱でもあるんじゃない」
「熱はないですよ」と言って、ノゾミは掌を自身の額に当てる。
「いや、ノゾミじゃなくて、その子だから」
「私のことだと思いました」
二人して笑う。しかし、その中に微かに違和感が溶けずに残る。その違和感を掬い取り、そっとノゾミに差し出せば、今ならどういう反応を示すのか、私は和やかな雰囲気に便乗して、言葉にする。
「名前、無いとやっぱり不便だね」
ノゾミは躊躇う様子も無く、「そうですよね、三人で暮らしているのに一人だけ名前がないのは変ですよね」とすんなりと前言を放棄する。私は肩透かしを食らった気がして、拍子抜けする。気まぐれなのか、私が気づかぬ一貫性があるのか。子犬をケースに入れ、再び腰を下ろしたノゾミと対座する構図になる。しどけなく崩された剥き出しの肢が細く、それでいて妙に女臭い。男が女を押し倒すのは、こうしたふとした瞬間に垣間見える無防備な生々しさに魅かれるからではないかと思う。
そういえば、男と長い間寝ていないことが頭を過ぎり、こうしてノゾミと一つの部屋に二人きりでいることに今更ながら変な心持ちになる。関係性、関係性と拘るのであれば、身元も曖昧な男と交わってきた自身の大胆さがよほど呆れたものに映る。畳の目に視線を落としたまま黙り込んだ私の口元を、ノゾミは時間を計るように見つめている。
「名前、決める?」
「はい……」
ノゾミは思案する様子で、眼差しを私から外しケージの上に移す。
「私、しばらく前から考えていたんです、もし名前をつけるならば、カズキだって」
随分と人間じみた名前を付ける。私は口を挟まず、頷いて促す。
「甥っ子と同じ名前です。姉の子供なんですけど、一緒に暮らしてたんです」
ノゾミの口から家族のことを聞いたのは、このときが初めてだった。もっとも、敢えて聞かずに避けていたのは私の方で、好奇心より当惑が先に立つ。踏み込みを躊躇っているうちにノゾミから引寄せられた形になる。
「私にすごくなついてたんですよ。可愛くて、頭が少し大きくて」
「頭が大きい……」
「その子、頭の病気だったんです。頭の中にどんどん水が溜まっていく病気で。でも、姉は何もしなくて、いつもどこかに行ってしまって」
「どこかに行くって、どこに行くの?」
「分かりません。旦那さんと黙って出かけるから。それで夜遅くまで帰ってこないから」
「そうなんだ……」
「私たち、四人で暮らしてたんです」
病気の甥と、育児に無頓着な姉夫婦、そしてノゾミ。そこに両親はどうやらいない。
「頭が痛い、頭が痛いって泣いて、でもどうすることもできないから、姉夫婦がいる前でも泣いて、旦那さんが何とかしろ、って私に言って」
顔は無表情ながら、声は熱を帯びて、発音する言葉の間隙に唾液の絡まる音が混じる。抑制が効かず、言葉ばかりが先走って、舌が追いついてない。
「私も何とかしなきゃって思って、でもどうしたらいいかわからなくて、友達に言ったら手術させた方がいいって言われて、それを姉に言ったら、だったらおまえが金を出せって言われて、それでアルバイトを始めて、お金渡して、それでも足りないって言われて……」
「それでその子は今どうしてるの?」
「知りません」
頷き損ねる。それまでの熱っぽい語りから冷めた回答への落差に付いていけず、思考が停まる。笑いの無いオチの後のような妙な間が生まれる。私の戸惑いを察したのか、ノゾミは付け加える。
「電話しても誰も出ないんです、学校を卒業したらすぐにこっちに来て、お金は送っているんですけど、あの子どうしてるかな」
<カズキ>という名前が落ち着く先のないまま彷徨う。迷いを口にしながら、相変わらず無表情で、メロドラマのヒロインのように自分に酔う素振りはない。脚色はしていない、と思う。私は、病気で苦しむ甥の名前を犬につける心理をどう理解したらよいかわからない。とはいえ、否定することでノゾミの過敏な精神に起きる波紋の大きさを予測できず、「そうね」と辛うじて繋ぐ。
結局、ノゾミは黙りこんで、自己の内側に没入する。私は一人取り残される。私は仰向けになって埃の浮いた天井を見上げながら、<カズキ>という音に寝入る子犬の像を重ね合わせるが、磁極が反発するようにいつまで経っても重ならない。
十月に入って、店長から交代で夏休みを取るように言われる。何も考えの無かった私は、そのことを失念し、思い出した頃には、他の従業員が既に希望日を埋めている。選択の余地が少ないシフト表を眺めながら、空いたところに○をつける。
帰宅してこのことを告げると、ノゾミは何かを言いたげな、粘りの残る顔つきをする。私は気づかぬ振りをして、話を切り上げる。先日の子犬の名前の件以来、ノゾミの饒舌を避ける癖がある。結局、子犬の名前は<カズキ>になり、カズキ、カズキと呼んでいるが、<子犬>の時よりもむしろ縁遠い心持がする。
幼い頃、曲がりなりにも近所の幼馴染の女の子とままごとに興じた時期があったが、あの時もその子が持ち込んだ2頭身の子犬のぬいぐるみに仮初の名前を与えたことを思い出す。胸に抱えて、プラスティックの皿に盛られた葉っぱを口に運びながら、名前を呼びかけるとき、ぬいぐるみが娘に変わる。当時の記憶はあやふやで、付けた名前はもう忘れ、その遊びをいつまで続けたのかも茫漠としている。ただ、名前を付ける時に幼馴染と言い合いになったのではなかったか。もともとのぬいぐるみの持ち主はその子で、持ち込んだ時点で既に名前が付けられていたのも当然のことであったが、私は名前の付け直しに頑なに拘った、気がする。なぜ拘ったのか、これもまた記憶はあやふやで、庭先の狭い一角で言い立てられて泣き出した幼馴染といきり立つ私が佇む情景だけが記憶の像として残る。
幼い頃と同じ構図で今の拘りを解きほぐそうとしたところで、考えは前に進まず同じところに絡まる。甥の名前を子犬に付けたことが腑に落ちない。薄氷に走った罅のように私を彼女から遠ざける。彼女の作法を理解したいという思いとは裏腹に彼女に擦り寄る意思は種火のままで強まる気配が無い。
風呂から戻って寝支度に取り掛かっていると、ノゾミが立てた膝に上半身を窄めてこちらを見ている。
「旅行に行きませんか」
「旅行?」
「はい、旅行です」
ノゾミ特有のこうした真意のわからないものの言い方に慣れたつもりでいるが、この時は微かに苛立ちを覚える。その苛立ちをいなして、冷静に問う。
「どこかに行きたいところがあるの?」
「いえ、特に」
「そう」
私は予想通りの回答に失望を覚えながら、一方で存外に旅行の考えに魅かれている。ノゾミとは生活を共にしながら、二人で共有する部分は少ない。積み上がりがなく、波立つことのない日常を淡々と送ることは、私の望みであったが、何もないこの部屋で二人して篭っていれば倦怠は避けられない。旅行で膠着した状況が緩むのであれば悪くなく思えた。その時、駅のホームで見かけた、地方の温泉街を紹介するポスターのことを思い出す。
「じゃあ、温泉でも行く?」
「温泉ですか……。カズキも連れて行っていいですか」
「えっ、カズキも」
「三人で行きたいです」
「じゃあ、三人で行こうか」
「やった」
表情に笑顔が点灯する。苦しそうにさえ見える、不器用な笑顔だった。その笑顔が私の抱いていた蟠りを解凍する。私は、カズキのいるケージをはしゃぎながら覗き込むノゾミを見つめながら、家族というのはこうしたささやかな出来事を積み重ねていくことで幸福という幻想を維持していくんだろうと妙なことを思った。
2-8へ続く
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?