ツクヨミ サトル

小説と躁鬱を患う妻と暮らす穏やかな日常。 紫色の火花、あるいはスプリング・ボオドを求め…

ツクヨミ サトル

小説と躁鬱を患う妻と暮らす穏やかな日常。 紫色の火花、あるいはスプリング・ボオドを求めて。

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詩『煩悩』

吐瀉物が通路の真ん中を流れていく。それは此方と彼方を分断する。吊り革につかまる少女の手首にリスカの線が流れる。そこもまた分断の跡であった。一年経つのはあっという間だねと言ったやつは夏に死んだ。年を分断したところで死人は出る。万人が平等に「良い年」を迎えるわけではない。 別れた女から無心の連絡がくる。それは煩悩のせいだ。タイムラインに「助けて」の言葉が並ぶ。それは煩悩のせいだ。フォロイーに殺すと言われる。それは煩悩のせいだ。ヘルメットを被った斜視の子供に指を指される。それは煩

    • 中編小説『二人』(4-1)

       激しい抗議を覚悟していた。顔を張られても仕方がない、と思っていた。あるいは私の存在を消して、例の固い沈黙の内側に籠る、と思っていた。そうはならなかった。話しかければ、薄いながらも応える。ものを出せば残さず食べる。事実を消化していない。嚥下さえしていない、と思う。弁明の機会は与えられず、膠着したまま償いの言葉は宙に浮かぶ。  ノゾミは、夜、啜り泣くようになった。私の疲弊した体は眠りを欲しているが、神経は覚醒し、細く震える線が途切れるのを待つ。やがて線は途切れ、点となって無数に

      • 詩『縁』

        感謝される謂れはない。 恐ろしい話だった。 赤子の頬に止まった蚊が血を吸っている。それは太った女との間にできた最後の私生児だった。何重も円を描いて深淵を覗くということ。昔の人はこのような場合、慎重に事を運んだ方が良いと言ったものだった。 部屋の中心から北西の方角に向かって助けてくれと叫ぶ。冷蔵庫を開けるとフジツボがびっしりと壁面にへばりついてこちらを見ている。私の浅はかさを見透かされたようでゾッとして、思わず嗚咽する。心の芯が海老剃りになって綻んでいる。 ガーシー砲にし

        • 詩『店員』

          「いらっしゃいませ」 声帯が震える。 ほんの少し前に何かが起きた。 それはこれから起きること。 それは脳が先取りしていること。 それは既に何度も起きたこと。 「かしこまりました」 自動機械は気取られぬよう背後に近づく。 眼差しは常に一方的でなければならない。 監視カメラがそれを追う。 あの人が見ている。 私という、それを。 「そちらでよろしかったでしょうか」 血の臭いが広がる。 うちに籠った耐え難い生々しさ。 そこに別の臭いが混じる。 客も私も消尽し隅々まで腐ってい

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        • 中編小説『二人』
          18本
        • 詩のようなもの
          40本
        • 中編小説『浅草 トリプティック』
          1本
        • 短編小説
          8本

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          中編小説『浅草 トリプティック』(1-1)

          第一章 山谷 迫村の場合 (一)  迫村は、すしや通りのアーチを潜って、浅草六区の通りに出た。  夕刻のこの時間、西友に夕餉の材料を買いにいく主婦、仕事帰りのサラリーマン、夕食の場を求める外国人観光客が通りを行き交い、昼間とは違う賑わいを見せる。その一方で、鈴なりに止められた自転車と建物の間にできた狭いスペースにホームレスが陣取り、缶ビールを飲みながら行き交う人々を呑気に眺めている。そこから少し距離を置いた場所には、派手なアイシャドウをした老婆がふらふらと揺れながら、薄く

          中編小説『浅草 トリプティック』(1-1)

          詩『これは詩ではない』

          Ce n'est pas de la poésie. 紙に落ちたeはsを待たず、アポストロフの仲介でnとの関係を清算する。 tが遅れて合流した時、eは不在、sも間もなく紙に溶け込んだ染みとなっていた。 一人きりとなり、tはpとの距離感、すなわち半角なのか全角なのかで悩んでいた。 pとsの間に挟まれたaは母音であることに優越を抱く。 しかし、所詮は否定の一部であり蔑まれる存在である。 後ろのsとは肉体関係にあり、カマを掘られているのは公然の事実であった。 オスとメ

          詩『これは詩ではない』

          詩『秋刀魚』

          スーパーで二尾350円の秋刀魚を買う。 帰宅して塩をまぶし、しばらく置いてから 胴に切り込みを入れていく。 微かな反発のあと、プツリと表面が裂ける。 刃先が肉に沈む。 深く切ってはいけない。 深く切ると千切れてしまう。 いつもの習いで深く切り過ぎないように、 自分に言い聞かせる。 秋刀魚から流れ出した黒い体液が控えめに 俎板を染めていく。 私は長らくセックスしていなかった。 それは致し方ないことだった。 焼ける秋刀魚をグリルの窓から覗いていると、 何処かから赤子の泣く声が聞こ

          詩『秋刀魚』

          詩『鬼隠れ』

          もういいかい? まあだだよ。 望遠鏡を覗き込んで探した。 月の裏側に書かれた答えを。 そんなものは必要無いから。 月に背中を預けたあなたは、 私の知りたいことを教えてくれた。 もういいかい? まあだだよ。 手のひらを交互に積み重ねる。 先に抜いたら殺すから。 あなたは笑って手を抜く。 殺す、殺す、殺す。 殺意のない呟きを大きな掌が包み込む。 もういいかい? まあだだよ。 ≪永遠≫の質量を測りたくて。 約束の言葉を唱える。 浮かび上がる身体。 見上げるとあなたがいた。

          詩『鬼隠れ』

          詩『箱』

          死にたい、ではない。 消えていなくなりたい、ではない。 受け皿無く情動が零れ落ちていく。 気楽に生きろ、とは随分と無責任な言い分だ。 死ぬ覚悟があるなら何でも出来る、 とはおめでたい話じゃないか。 分かち合いの精神が大切だろう。 毎秒1.8人が死んでいくこの世界では。 時計の針の刻む音がする。 電池は疾うの昔切れたのではなかったか。 この箱の中にいるのは私一人だった。 時間を気にする必要はもはや無いだろう。 前に進んでいるつもりが後ろに進んで、 そもそも最初から前も後ろも無

          詩『類語練習帳』

          努力を重ねる。 ピアスの穴を数える。 勉強をする。 タイルの表面に血だまりを作る。 仕事をする。 処方された薬をピルケースに仕舞う。 デートをする。 歓楽街の知らぬ路地に迷い込む。 約束をする。 左腕の内側に赤い線を刻む。 食事をする。 猫の骸を土に埋める。 睡眠を取る。 父親が苦しんで死ぬ姿を想像する。 セックスをする。 飴玉に群がる蟻を踏み潰す。 愛する。 電球の切れた浴室に引きこもる。 笑みを浮かべる。 写真に写った自分の顔を黒色で塗り潰す。 涙を流

          詩『類語練習帳』

          詩『日記』

          とりもちが絡まり身動きのできないゴキブリが僕に向かってこう言った。狂気を作りなさい、と。僕はその意味を理解できなかった。近いうちに生きたまま燃えるゴミに出されるから僕を懐柔しようとしているのだろうと答えたら、ゴキブリは悲しそうな顔をした。 僕はこのやり取りを忘れないように日記に記録した。 空を見上げると花王のロゴみたいな月が僕に向かってこう言った。日頃から憎しみや妬み、殺意をノートに書き連ねなさい、と。僕は三日坊主を見透かされたようで少し恥ずかしかった。そうしますと答えた

          詩『罪状』

          待ち焦がれてもその時は訪れず。 要らぬ気遣いか。 さもなければ勿体ぶった采配か。 呪詛を求めて勤勉に奉仕してきた。 それではまだ足りぬ、ということか。 詰まらぬ状況証拠ばかりが積み上がる。 鏡の向こう側にあった血だまりは乾き、 ケロイドの痕は惨めな線を引く。 青白い顔した陪審員は退屈そうに賽を振る。 それが証拠の全てだった。 言い残すことはないかと問われ、 生まれてこの方、罪とは無縁だが、 もはや有罪か否かはどうでも良かった。 俺はお前たちが飽くまで永久に控訴する。 そし

          詩『それ』

          「それ」は夜明けに生まれる。 生まれて早々に絶叫する。 地面を這い回り、私の後を追ってくる。 私を指さし、ケラケラと笑う。 明るいところより暗いところを好む、らしい。 ローテーブルやベッドの下に潜り込む。 布に隠れて私が見つけるのを待っている。 そうかと思えば、私の指先を強く噛む。 私に似ていた。 やや垂れ目がちなところが。 厚ぼったい下唇のところが。 顔ばかりに肉がついて胴体がひょろりともやしみたいなところが。 よくよく見れば目も唇も無かった。 何処が顔で何処が胴体かさ

          中編小説『二人』(3-3)

           オーナーへの回答の期限はとうに過ぎている。避けていたわけではない。別の店舗で起きたトラブルの対応でオーナーが店に顔を出さず、私は私で忙しさにかまけて電話をしなかった。結果的に待つという名目で先延ばしになった。私の腹は決まっている。頭の中で問題が絡まり、解きほぐすことができない苛立ちに悩まされてきたが、よくよく考えればそう複雑な話ではない。母親から日に何度も催促があるのだから、送金する以外に選択肢はない。送金のためには、先立つものが必要で、今の給料で支払えないのであれば、増や

          中編小説『二人』(3-3)

          中編小説『二人』(3-2)

           今日も隣の部屋の女がすすり泣いている。数日に一度は泣く。何をそれほど泣くことがあるのかと不思議に思う。私には泣くほど悲しいことがあるように思えなかった。こちらの生活音も漏れ聞こえているはずで、壁の薄さを気にせず泣ける自己愛の強さに呆れる。  壁に指先を当てると、ひっかくようになぞる。続けて軽く指で叩く。壁の向こう側にも明らかに聞こえるように少しずつ強くしていく。最後には拳を作って、叩く。 「うるさい」  重ねた腕に顔を当ててうつぶせていたノゾミが首を捻ってこちらを見る。 「

          中編小説『二人』(3-2)

          中編小説『二人』(3-1)

           二人しかいないのだから、片方が黙れば、もう片方も黙るしかなかった。口数の少ない日が続く。話しかけても反応は乏しい。遅れて頷きはするが声は発しない。カズキを連れて散歩に出ても、ファミリーレストランで食事をしていても黙り通す。切り替えのできない不器用さを哀れに思いながら、自責心の強さが独り善がりに思え、こちらの言葉が一向に響かぬことに苛立ちを覚える。これまでも塞ぎ込むことはあった。数日経てばぽつりぽつりと口を開き、それを糸口に塞ぎの虫を少しずつ引きずり出して最後はいつもの"ぎこ

          中編小説『二人』(3-1)