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中編小説『二人』(3-3)

 オーナーへの回答の期限はとうに過ぎている。避けていたわけではない。別の店舗で起きたトラブルの対応でオーナーが店に顔を出さず、私は私で忙しさにかまけて電話をしなかった。結果的に待つという名目で先延ばしになった。私の腹は決まっている。頭の中で問題が絡まり、解きほぐすことができない苛立ちに悩まされてきたが、よくよく考えればそう複雑な話ではない。母親から日に何度も催促があるのだから、送金する以外に選択肢はない。送金のためには、先立つものが必要で、今の給料で支払えないのであれば、増やすしかない。給料を増やしたければ、オーナーに一言「やります」と伝えれば済む。単純明解だった。
 結局のところ、自分の意思に関係なく自分の人生が決まっていくことにほんの少し抵抗したかっただけだった。抵抗したところで、逃げ道なんて残されていない。勿体ぶって遠回りしたところで行き着く先は同じだった。オーナーが来店した日に他の従業員に気取られないよう注意しながら「やります」と伝える。私に与えられた選択肢はただそれだけだった。

 早番のシフトから上がった夕刻、駅前のカフェでオーナーと会う。今後の段取りを聞く。新しい店舗の場所は当たりをつけていると言う。実家からも今の部屋からも遠く、電車の乗り継ぎが上手くいっても二時間では済まない場所だった。
「もう決定でしょうか」
「ほぼ決定かな。通うには厳しいのは分かっている。引越しの費用はこちらで持つから」
「少し考えさせてください」 
 実家から離れることに抵抗はない。もう自分の帰る場所ではない。口では帰って来いと言うけれど、帰れば無心されるか、さもなければ罵倒される。子供は虐待されても親を庇うというが、親に対する片思いほど残酷な話はない。幸いなことに世間一般の子供と比べて今の私は薄情にできている。人並みに有った情も叩かれ続けてすっかり霧散し、今では割れた風船のようきれいさっぱり中身は消えた。とはいえ、送金していれば家族の関係は続く。送金するだけの家族の関係が続く。ほんの少しの覚悟で断ち切れる一縷の関係を私はなぜかそのままにしていた。
 気懸かりは、ノゾミとの生活だった。軽い気持ちで同棲生活を始めたものの、存外に長く続き、今ではノゾミと暮らすあの部屋が帰る場所になった。ノゾミにはまだ話していない。今の部屋から通えたならば、今と変わらない生活は続く。仮に新居での暮らしをノゾミに提案したとして、彼女がどんな反応を示すのか。今住んでいるあの部屋が何なのか未だ知らぬが、憶測はできる。恐らくこうだろうと考えていることは間違っていない、と思う。しかし、答え合わせはどうでも良い。気にしているのはノゾミの反応だった。漸く沈黙の衣を脱ぎ下ろして、以前のノゾミに戻りつつある。揺り戻しが起きれば、まだ受け止めるだけの余裕はない。それでも、先送りする時間は無い。
 結局その日の夜、私はノゾミに告げる。

 部屋は随分と広い。何も無いが故に余計に広く感じる。ノゾミと私は習い性のように二人揃って壁にもたれる。カズキは初めての場所に馴れないのか、ケージから出てこない。荷物は小ぶりの段ボール2個で引越し業者を使うほどでもなく、宅配で済ませた。箱から衣服を取り出し、クローゼットにかければ荷解きは大方終わる。他は化粧品に、カズキを手入れするための道具や餌で、生活用品はない。
 ノゾミは最初少し難色を示した。即答できない、翌日回答すると言った。翌日、といっても翌々日に間もなく切り替わる夜更けに電燈の消えた闇の中だった。
「昨日のことですが、大丈夫です」
「そう」
 何の手続きを経てこの結論に至ったのか知らない。私は訊かない。ノゾミもそれ以上は何も言わなかった。
 部屋探しは二人でした。旅行の時のように、漫画喫茶の狭いパーティションの中で二人膝を折り曲げて、画面に映る間取りについて話し合った。ノゾミの希望は、カズキが飼えること、それだけだった。私も特段に拘りがなく適当に決めるつもりでいた。あれこれと比較するうちに、宿探しの時と同様に、段々と真剣になり、迷う。それでもどうにか絞り込むと、仲介業者に連絡をして、内見したいと伝える。
 二人で休みを合わせて、電車を乗り継いで現地に行く。密集していた建物が次第にまばらになっていく車窓からの風景を眺めながら、先日の旅行のことを思い出す。ノゾミがあの時を思い出し、内面に沈み込まないかと気に掛かったが、走り出して早々にうつらうつらと船を漕いでいた。
 駅には仲介業者が迎えに来ていた。ひょろりとした長身の若い男の人で、部屋に入ると、ベッドをここに置いて、テーブルをここに置いて、と自分のイメージする家具の配置を饒舌に語った。二人暮らしだと事前に伝えていなかったので、配置されるベッドは常に一つだった。
 最初に伝えていた部屋の他に2件まわって「ご希望に沿うお部屋はありましたか?」と訊かれた。「どうする?」とノゾミを見ると「私はどこでも」と言った。そのやりとりを男の人は不思議そうに聞いていた。数分の相談ののち、私たちは最初の部屋に決定した。

4-1へ続く

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