見出し画像

中編小説『二人』(4-1)

 激しい抗議を覚悟していた。顔を張られても仕方がない、と思っていた。あるいは私の存在を消して、例の固い沈黙の内側に籠る、と思っていた。そうはならなかった。話しかければ、薄いながらも応える。ものを出せば残さず食べる。事実を消化していない。嚥下さえしていない、と思う。弁明の機会は与えられず、膠着したまま償いの言葉は宙に浮かぶ。
 ノゾミは、夜、啜り泣くようになった。私の疲弊した体は眠りを欲しているが、神経は覚醒し、細く震える線が途切れるのを待つ。やがて線は途切れ、点となって無数に散らばり、代わって部屋全体に息苦しいまでの孤独が満ちる。
 ここにいるのは私たち二人だけだった。

 引越してから私もノゾミも自宅にいる時間が短くなった。私はこれまで以上に時間も精神も仕事に囚われて、帰宅は睡眠との同義だった。ノゾミは仕事を変えず、律儀に片道二時間かけて歓楽街の外れの外れにある、あの雑居ビルに通っていた。 
 その日、私は七日連続の出勤となり、溜まった洗濯物を片付けたいと理由を付けて、夕刻前に仕事を切り上げた。帰宅後、一通りの家事を済ませ、しばらくカズキと散歩をしていないと思い至る。ノゾミは夜更けでも、連れ出しているようで、カズキに運動不足の心配はない。どちらかと言えば私の気晴らしに付き合ってもうおうという算段だった。スニーカーを履くと、カズキにリードを繋いで、近所の空き地に向かう。
 柵に囲まれ、何かを建設する予定だったのか資材が朽ちるままに放置された、寂れた場所だった。ここには何度か連れてきていた。カズキはマーキングしながら積み上げられた木材の周囲を丹念に辿っていく。相変わらずのマイペースでこちらが促すまで前には進まない。焦れて背後から抱き上げる。カズキはされるがままに大人しくしている。そのままリードを外す。初めてではない。引っ越しをする前に、ノゾミと揃って散歩をする際、私たちは何度かそうした。
 初めてそうした時、「カズキも大きくなったから」とノゾミは言った。呆気にとられて、「大丈夫?」と思わず口にすると、ノゾミは穏やかな笑みを浮かべて頷いた。私はいつ駆け出しても捕まえられるように気を張ったが、カズキは一歩踏み出すたびに我々の方を窺い、一定の距離を保っていた。その表情は、リードから解放された喜びよりも怯えや心細さを示していた。いつ外しても変わらず、距離は同じだった。そのうち、私もまたノゾミと一緒の時はリードを外すようになった。
 しかし、私は誤解していた。それは私たちとカズキの距離ではなかった。ノゾミとカズキの距離だった、と今になって思う。この時も、カズキはいつものように振り返った。私がいることを確認し、私の隣にノゾミがいないことを確認した。そして、一拍置くと、正面を向いて、勢い良く駆け出した。
 私は、いつもの感覚で安心していた故、不意を突かれて一歩目を踏み出すのが遅れた。後を追おうと踏み出した時、カズキは空き地の入り口から通りに出ていた。通りに出ると、数十メートル先の角を曲がる後ろ足が消える。その角を曲がっても、駆けるカズキの姿を辛うじて捉えられたが、距離はもう挽回の余地が無いまでに広がっていた。
 ここ数週間、休み無く働き続け、疲労は抜けることなく積み重なっていた。そもそも駆けるなんて動作は学生の時以来で、踏み出した足が重く感じられ、間もなく胸を真上から押さえつけられたような痛みに襲われる。呼吸の度に身体が背後に置き残され、激しく吐き出される息は嘘のように白く靄となって、視界を曇らせた。結果は明らかだった。足は私の意思を拒絶し、完全に止まった。19時34分と表示する携帯電話の画面が妙に眩しく感じられた。
 それから間もなく訪れたのはノゾミの恐慌への恐れだった。ノゾミが帰宅するまで時間は十分にある。私は笑う膝を諫め何とか説得して歩き出すだけの気力が回復すると、盲滅法に近辺を廻り、カズキが隠れていそうな茂みがあればかき分け、人の家の庭にも足を踏み入れて覗き込んだ。通りで人を見かければ、声をかけて、首輪のついた犬を見かけなかったかと尋ねた。帰巣本能を考えて、自宅マンションの前にも何度か戻った。僅かな痕跡にも縋って、アスファルトに落ちた街灯の光を隈なく辿った。それでも、カズキの姿はもちろん、希望に繋がるものは一切無かった。
 二十三時を過ぎ、諦めが先に立つ。これ以上探したところで残るのは時間を尽くしたという言い訳でしかなかった。自宅まで戻るわずかの間、恐慌を回避する術に思いを巡らせるが、どの道筋を辿っても結論は変わらなかった。

「ノゾミ、冷静に聞いてね」
 部屋には私しかいない。だから言わなくてももう分かっている、と思う。
「カズキと散歩してて、いつもみたいに、リードを離したのね、そうしたら……」
 ノゾミの表情に微細な、亀裂が走る。喜怒哀楽のいずれとも結びつかない。口の端だけ見えれば少し上がって笑顔のようだが、剥いた眼はガラス玉のように生気なく私を見つめる。私が言い終わる前に、ノゾミは私の横をすっと、そのまま消えてしまいそうな静かな足音で抜ける。スニーカーに踵が入りきらぬまま踏み出し、体をドアに押しつけ、空いた隙間からこぼれるように出ていく。遅れてスニーカーに足を通しながら、これからノゾミの感情が統制を失った凧のように乱れると想像し、暗澹たる気がする。
 マンションのエントランスに立つと、ノゾミの声が外から壁を刺し貫く。カズキ、カズキと後付けで言葉を重ねられても、直接聞こえるのは、獣が喉を鳴らしながら威嚇するような、言葉とは言えない暗い響きだった。普段の細く、薄い声音からの変容に怖気を覚え、その後ろに付きながらも声をかけられず背中だけを見ていた。ノゾミは鎌首をもたげる蛇のように、ぎょろぎょろと首を左右に振りながら、必死の形相で周囲を見渡す。すでに私が散々探した後で、この界隈にカズキはいない、と断言できたが、おくびにも出せなかった。カズキ、カズキと重ねる呼び名が、そこにあるはずの私の輪郭を薄めていき、私の存在を消していく。探すふりをして私はただノゾミの影に寄り添うしかなかった。
 翌日も、その翌日もノゾミは仕事を休み、一日、という時間の全てを捜索に注いだ。携帯電話で撮った粗い解像度の写真を失踪した広場の周辺にある電信柱に貼っていると言う。出勤の際にその通りを歩くと、写真と連絡先を記載した貼り紙が一切の歪みなく均等に貼り付けられている光景が連なる。ノゾミの内面がそのまま眼前に生々しく立ち現れたようで、私はその場に立ち竦んで呆然とする。三人が二人になり、ノゾミは自覚無く膨張していく。私は圧倒されながら、取り込まれるわけでもなく、ただ外側に押し出されていく。
 進展はなく一週間が経った。その間に保健所にも行った。覚悟を決めて項垂れるか、さもなければ落ち着かずケージ内を行き来する犬の顔を一頭一頭照合し、選別し、振い落としていった。違いが判らず、どの犬もカズキのような気がして、まるで別の犬のようでもあった。帰宅して静まった部屋でじっとしていると、カズキがいた痕跡が依然強く主張してくるが、煽られるわけではなく、それを淡々と受け入れ始めている自分がいる。やるべきことをやった。諦めて良い時分であった。しかし、まだノゾミにその気配なく、起きている間は空いた穴を埋めるために外に出る。私は何も言葉にせず、日常を取り繕って過ごした。その間、ノゾミと知り合う前の、薄情な自分を思い出した心地がしていた。
 そして、ある日、ノゾミは憑き物が落ちたように止める。何事もなかったように早朝に仕事に出かけ、深夜に帰宅する。何かが終わり、何かが始まった、らしい。私には何処に分水嶺があったのか分からなかった。ノゾミもまた元の日常に引き戻されていった、ということか。私は歓迎したい心持ちがしたが、きっかけがきっかけだけに、静観するしかなかった。
 そして、夜がふけると、嗚咽が滴り、細く震える声が部屋の四方に伸び始める。この部屋がもう以前の日常へ戻ることはないと知る。別の変容した日常がそこに新たに立ち現れた、ということだった。

 やがて、この部屋で、私は一人となった。

4-2へ続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?