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中編小説『二人』(3-1)

 二人しかいないのだから、片方が黙れば、もう片方も黙るしかなかった。口数の少ない日が続く。話しかけても反応は乏しい。遅れて頷きはするが声は発しない。カズキを連れて散歩に出ても、ファミリーレストランで食事をしていても黙り通す。切り替えのできない不器用さを哀れに思いながら、自責心の強さが独り善がりに思え、こちらの言葉が一向に響かぬことに苛立ちを覚える。これまでも塞ぎ込むことはあった。数日経てばぽつりぽつりと口を開き、それを糸口に塞ぎの虫を少しずつ引きずり出して最後はいつもの"ぎこちない笑顔"で終わる。今回は一週間経っても糸口は掴めず、固く閉ざされた口が開くのを待つうちに、焦れてくる。無理やり抉じ開けるために一喝したい衝動に駆られる。それが良い方向に働く保証はない。そのうち私も黙る。部屋に沈黙が澱む。重苦しさが腰を据えて居座る。旅行の失敗から数週間経っていた。

 仕事で一つの転機が訪れる。オーナーから別の店を立ち上げるから店長をしないかと打診を受ける。4月のオープンを目指して年明けにも準備を開始したいから、その段取りもして欲しいと言う。私より先に入店した先輩がいる中での抜擢だった。
 しかし、即座に承諾しない。確かに、自分で店を取り仕切ることに魅力は感じる。だが、店長になれば激務に晒される。従業員の管理はもちろん、売り上げの数字も気にしなければならず、慢性的に人手が足りない故、スタッフと同じように施術も求められる。帰宅できずに事務所で突っ伏す店長の姿を何度も見てきた。同じことを自分もできる自信が無かった。
 一方で母親とのことがある。先日のことだ。部屋に入る前から声は聞こえていた。居間に繋がるドアを開いた途端、ダイニングテーブルを挟んで、母親が父親に向かって「あんたが仕事せず家の中でグジグジしてるから私が苦労する、病気になったのもあんたのせいだ」と罵る姿を目の当たりにする。母親は父親に対して辛辣な言葉を口にするのは日常的ではあるが、ここまで激しく罵るのは珍しかった。父親は暗い眼で母親の罵りを黙って受けている。父親と母親のやり取りに私は干渉しない。対岸で燃える限り私には他人事だった。
 習慣に従い「ただいま」と言う。「おかえり」という返しは期待していない。母親は、視線を父親に向けたまま「帰ってくるなら帰ってくるって言いなさいよ」と返す。
 視線は父親の上に粘る。我が身に矛先が向かわぬうちにと居間に背を向けるが、背後から強く腕を掴まれる。「帰ってくるなら帰ってくるって言いなさいよ」と同じ言葉を繰り返す。改めて連絡していなかったが、帰宅する曜日は固定していた。弁解はしない。ただ自動機械のように、「ごめんなさい」と謝る。「どいつもこいつも」と口にした後、「ああー」と唸るような溜息を吐く。私はその場に立ち尽す。腕は強く掴まれたまま、徐々に締め付けられていく。もう一度「ごめんなさい」と言う。
「あなたは気楽な身分よね」
 そう言って母親は手を離したが、奥歯を強く噛み締めているいるのか、頬の筋肉が盛り上がっている。
 その夜、布団に入り眼を瞑って入眠の支度をしていると、軽いノックの後、母親が入ってくる。何が起きるのかと緊張で身体が強張る。母親が傍にいるだけで怯えが走る。それが生理となっている。母親はベッドサイドに腰を下ろして、静かに私を見下ろしていた。
「舞子、寝ているところごめんね」
「どうしたの」
「あなた、今、お給料どれくらいもらってるの」
「どうして」
「毎月、家にお金入れてくれてるけど、もう少し入れてくれないかなって思って」
「何かあったの」
 結論を先に延ばそうと、話を逸らす。理由はどうでも良い。父親が仕事を辞めた時から家計が行き詰まるのは分かっていた。母親は浪費家ではないが、節約家でもない。多少蓄えがあったところで、生活のレベルを落とさなければ、長くは持たない。見栄っ張りの母親にそんなことができるとは思えなかった。
「お父さんも失業して、お母さんも働いていないから、今うちの収入はお父さんの失業手当だけでしょ。働いているのはあなただけだからあなたにがんばってもらわないと」
 母親の明け透けな物の言い方に、表情には出せないが、内心憮然とする。これ以上払いたくなかった。給料の中から実家へ納めている額は少なくない。給料がもともと少ない上、接客の仕事故、化粧品にも洋服にも気を使わなければならない。ノゾミとの生活でも、食費の大半は舞子が持っている。自由に使える金はほとんど残らなかった。だから、正確に言えば、これ以上払えなかった。それでも、私は口にできず、下唇を噛む。
「恭一も大学受験だから、お金がいるのよ、お姉ちゃんなんだから、弟のためにもがんばらないと」
 どう答えると切り抜けられるのか分からない。口答えすればどうなるか容易に想像できた。「はい」と答える以外に今、この場の"脅迫"から解放される言葉が見つからない。母親は穏やかな微笑みを浮かべているが、見開いた眼差しは「はい」と答えることを強く促している。
「どうにかするよ」
 母親は腰を上げると、笑みを浮かべた。学生の頃、レンタルビデオショップで借りた映画に出てきた蛇女みたいな顔だった。
 以来、金をどうやって工面しようか、当てのないことに悩んでいた。そして、今回の打診だった。店長になれば激務に晒されるが給料は増える。売り上げが上がれば上乗せも期待できるだろう。でも、と思う。沈み始めた船にいくら細いロープを括りつけたところで引き上げられはしない。私には、父親も母親も沈みゆく船だった。
 いっそのことさっぱりと手を離したらどうなるだろうか。恭一には申し訳ないが、店長になったところで、進学させてあげられるわけではない。割り切る覚悟さえあれば選択肢はこの一択になる。
 「でも」とまた別の考えが頭を擡げる。複数の考えが回転しながら、一向に一つにまとまらず、脳内で不協和音となる。不安と吐気が満ち引きを繰り返す。結局、結論を出せないまま、もう少し時間が欲しい、オーナーに伝えた。

3-2へ続く

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