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中編小説『二人」(1-5)

 扉の向こう側に人影が立ち、ようやく自己言及のループから意識が切り離される。壁に掛かった時計を見ると、短針が12時を指す。私は気持ちを切り替えようと、頬に力を入れ、迎え入れる顔を作る。扉が開き、ノゾミがまだらに濡れた姿で立っている。
「いらっしゃいませ」
 一瞬顔をこわばらせ、そして「また来ました」と言う。その言葉に妙にホッとさせられる。回数を重ねるうち、ノゾミからも少しずつではあるが気安い言葉が出てくるようになった。二週間に一度、約束を律儀に果たすかのように、同じ時間に訪れるこの子の存在が、止めどなく悪罵にさらされる日常の中で、変わらず位置を示す止まり木となって私に細やかな安心を与える。
 薄手のハンカチを身体に当てがうノゾミに、良かったら使って、とタオルを手渡す。ノゾミは受け取ったタオルを丁寧に折りたたむと、真剣な眼つきで濡れて張り付くジーンズの太ももにゆっくりと当てがう。その動作は、人の眼差しを気に留めずケースの中で毛繕いに耽る子犬のようだと思う。
 ふと視線の先に引っかかりを覚え、原因を手繰り寄せようと丸めた背中を辿るうち、人間とは違う、細長く色の薄い毛が淡いチェック地の表面に付着しているのに気づく。
「犬、飼ってるの?」
「あの……」
 ノゾミは一瞬言葉を詰まらせたが、そのまま沈黙に落ちることなく、踏み止まる。呼吸を一拍置くと、語頭に強い調子を込めてやや早口に言う。
「舞子さんも見ていた、あの子犬、今、私のうちにいます、黙っていて申し訳ありません」
「そう……」
 妙に改まったものの言い方に、長い間吐き出さずに堪え、何度も何度も内側で反芻してきたと思わせる、硬い痕跡を感じ取る。
「あの子、ノゾミちゃんが飼ってたんだ」
 私はノゾミの気をほぐそうとわざと頓狂な声を出す。繊細な感受性は僅かな刺激にも鋭敏に反応し、固く閉じる。一度閉じれば、いくら言葉をかけても理不尽なほど反応は薄くなり、頑なに内に閉じ籠る。数を重ねて学習したことだ。もっとも、最近は私を信頼しつつあるのか、多少の踏み込んだものの言い方にも訂正の猶予を与えてくれる程度にはなった。
「はい……。ずっと舞子さんに報告したかった、舞子さんもあの子のこと、見ていたから」
「うん……」
 《見ていた》という言葉が私の中で素直に解けずに残る。確かに、ほとんど毎日のように、足繁くペットショップに通い、決まって同じケースの前に立っていた。それは仕事前のルーティンだったと言って良い。そのルーティンが子犬の失跡によって無期限の凍結となり、残ったのは十五分の空白だった。その空白を埋めるため、用もなく職場の周囲をぐるりと廻り、近くの百貨店や大型書店のフロアからフロアへ順々に彷徨し、やり過ごしてきた。それらも長くは続かず、他に代わる手段も無かったが故、已む無く駅から店まで真っ直ぐ向かうようになった。事務所で雑誌を読んで時間を潰すのが、ここ数週間の習いとなっている。ただ自宅を出る時間を遅らせるという発想だけは無かった。
 それにしても、くだんの子犬に対する未練の無さには我ながら首を傾げたくなる。周囲の友人や男たちに比べ、私はモノに対する執着心が薄い。自分の周りにモノが僅かにでも溢れ出すと、途端に全てを清算したい、手当たり次第ゴミ袋に放り込んでしまいたい衝動に駆られる。それは人間に対しても同様で、出会った当初のうわべの関係からたまたま相手の粘りが優って関係が継続し、ともすれば気安い言葉をお互いに掛け合うまで引き伸ばされると、もうだめで、鬱陶しさに堪えられなくなり、誘いの連絡がきてもあれやこれやと言い訳をして断っていた。何度も繰り返せば、自ずと相手は悟って、連絡は途切れていく。それでも残った数少ない友人は、献身的というべきか、被虐的というべきか、一方通行でも厭わない子たちだった。その私が子犬の元へ足繁く通っていたことは奇矯な事で、精神分析に掛ければ何らかの歪みに行き着くのかもしれないが、表面的にはこれといって心当たりはなく、たまたま空いた時間に立ち寄ったペットショップで、たまたま最初に目についた子犬のケースを何度か覗くうち拘りが生まれた、というただそれだけのことだと思っている。
 ノゾミのこちらを真っ直ぐ見つめる瞳に後ろめたさを、執着が私にも向けられていることに気後れを覚える。沈黙はいけないと急いた気持ちで、「あの子、元気にしてる?」と口にしてから、自身の無関心が言葉に表れている気がして、思わず伺う目つきになる。
「元気です、生まれつき目に障害があるみたいで、いつも目の端にやにを溜め込んでるけど、ごはんは食べてくれるから」
 そう言うとノゾミははにかんだ表情を浮かべた。私はノゾミの素直な笑顔を初めて見た気がして、つられて笑う。事が充足し、さらに溢れ出しそうな不安定な満足感に、後からきっとやってくるであろう自己嫌悪の気配を薄々と感じ取りながら、あえてもう一歩踏み込んでみたらどうなるかと、軽薄な欲求に捉えられる。
「ノゾミちゃんさえ良かったら、一度あの子に会わせてくれないかな」
 私は勢いに任せて口にしていた。

 その日、寝床に入ると、私はノゾミと交わした会話を反芻した。そして、間も無く眠りに落ちると夢を見た。
 箱があった。使い古されて所々破れ目の目立つ、ダンボールで作られた粗末な箱だった。私はその箱の側に立ち、中を見下ろしている。箱の中には、子犬がいて、憐れみを誘う潤んだ眼差しでこちらを見上げている。子犬は時折思い出したように上半身を起こして箱からの脱出を試みるが、前脚が箱の縁まで届かず、側面を掻いても爪は引っかかることなく滑り、終いにはバランスを崩して背中から倒れる。そしてクゥーンと喉を震わせて途方に暮れた顔をする。私は手を差し出して引き上げようかと思案する。しかし、実行に移さない。
 別の日、同様に箱の前にいる。箱の中に子犬の姿は無い。私は安堵している。踵を返して踏み出した足に何かが当たる。内臓を剥き出しにし、無数の蛆を孕ませた子犬が足元に横たわっている。視覚から時間を置いて嗅覚が反応し、途端に腐臭が鼻腔に流れ込んで、思わず口を覆う。そこから、早送りの映像を見ているかのように、蛆は肉を食らって急速に太り出し、比例して子犬は骨を晒し出す。私は呆然と立ち竦み、それでいて目を逸らすことができず、死の陰惨な営みをただ見入る。やがて蛆は羽化して蝿となり飛び始める。
 初めは手で払っていたが、次第に鬱陶しさが募り、何故か手に持っていたオイル缶を逆さにして子犬の死骸に振りかけると、擦ったマッチをその上に落とす。子犬の腐った身体からか、蝿のそれからか判然としないタンパク質の焼け焦げる臭気が濃く立ち込める。爆ぜる焔に私は恍惚としていた。

2-1へ続く

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