見出し画像

中編小説『二人』(2-1)

 数日後、私とノゾミはファミリーレストランで、テーブルを挟んで向かい合っていた。ノゾミは出会った当初のような硬い張り詰めた表情をして俯き、自らの指先に視線を凝めている。私もまたその美しい造形をそぞろに眺めながら、話し出す頃合いを計っている。

 指定された待ち合わせ場所は、職場のある終着駅から数駅手前にある、急行の止まらぬ駅だった。毎日通り過ぎていたが、車窓からちょうど同じ目線に見える、性病専門病院を宣伝する、赤錆びた屋上看板のある駅という印象しかなかった。
 ホームに降りた時、学生や勤め人の帰宅時間にはまだ早かったこともあってか、乗降する客はそれほど多くなかった。待つ間、ロータリーの周囲に立ち並ぶファストフード店や居酒屋の入った雑居ビルを何となく眺めていると、その背後に聳える巨大な積乱雲が目に入り、今夜は雨か、と根拠のない見立てをした。

 運ばれてきた飲み物にお互い口をつけると、先に口を開いたのはノゾミだった。
「すみません、こんなところまで来ていただいて」
「ううん、私が無理言ってお願いしたことだから」
「でも舞子さんが言ってくれて嬉しかったです、あの日から私、こうなることを予感していた気がします」
 《予感》という日常聞くことのない言葉を耳にして、随分大胆なことを言うな、と驚かされる。あの日が、ペットショップで隣に並んだ時を指すのか、ビラを手渡した時を指すのかわからぬまま、私は曖昧に頷く。
 ノゾミが口をつけたグラスの縁にグロスの淡い朱が透かし絵のように浮き上がる。顔をよく見れば、店で対面した時に目立った頬の黒子がファンデーションで塗り込められている。おそらく今日がノゾミには何か特別な意味を持っている。私は自身の軽薄な好奇心から思わぬ深みに足を踏み入れた気がして、内心重苦しさを覚える。私は言葉を慎重に選ぶ。
「あの子の名前は?」
「まだ決めてません」
「えっ?」
 当たり障りのない問いのつもりが、思わぬ礫が返ってきて私は面食らう。
「でも、もう飼い始めてから大分経っているよね」
「あの子と私、二人きりだから名前がなくても不自由はないんです」
「呼びかけはしないの?」
「勘のいい子だから呼ばなくても察してくれるので」
「そう……」
「でもこれからのことを考えたら名前は必要ですね」
「そうだよ、やっぱり必要だよ」
「二人じゃなくて、三人になりますから」
 細く膨らみの小さい声で発せられた言葉がねっとりと糸を引く。私を試しているのか。いきなり観客席から舞台に引きずり上げるような、踏み込んだ回答に私は困惑する。ノゾミは、私の困惑に気付いた様子なく、微笑みさえ浮かべている。店でもあまり見せない少女の無邪気さを表出している。私はノゾミの期待をまともに受け止めてはいけないと妙に焦りを覚え、押し返すつもりで言う。
「ねえ、私、ノゾミちゃんの家に行って迷惑じゃないかな」
 事前に子犬に会いたいとは言っていたが家に行きたいとは言っていなかった。
「家ですか?」
 想定していなかったようで、それまでの笑顔はにわかに曇り、真剣な表情の中へ沈み込んでいく。背凭れから背を離すと、テーブルに肘をついて考え込む風になる。
「迷惑だよね、ごめん、図々しいこと言って」
 ノゾミが言葉を返す前に言葉を被せる。まるで男が目当ての女をかき口説く構図になる。いや、この場合は逆で、意中ではない女の想いを逸らすための口上というべきか。
「一目あの子犬を見られれば満足だから、気にしないで」
 そこまで言ってから、振り返って随分引き離したはずの相手との距離を測るように、一旦言葉を止めてノゾミの反応を伺う。ノゾミは眉根に険しさを含ませ、何か逡巡している様子だった。
「ごめんなさい、今日は部屋が散らかってるから、でも次は大丈夫です」
 そう言うと、ノゾミは長い睫毛を伏せる。引き離したはずが背中にぴったりとくっついて追走される形となる。本心で言っているのか、先延ばしにしてお茶を濁しているのか判然とせず、私はやや投げやりな気持ちで「本当に気にしないで」と辛うじて言葉を繋ぐ。しかし仮に後者であるならば、はぐらかしたノゾミに違う側面を見た気がして、ふいに馴染んだはずのその表情が知らぬ女の顔に変わる。
 私は店で多くの客を相手にして、女たちを類型化する習慣を身に付けている。表情、話し方から服装、つけた香水の匂いに至るまで、その場で得られる僅かな材料を掻き集めて、女たちの日常や嗜好のイメージを拵える。そうすることで、相手に合わせて自身を折り曲げ、無用な摩擦を回避している。しかし、ノゾミについて見極めがつかない。掴んだと思ったらにわかに霞に変わり、また別のノゾミが表れて、私に向かっておいでおいでと手を振っている。ノゾミの像は一向に一つに定まらず、それ故、対する自身の態度が定まらぬことに居心地の悪さを感じる。
 ふいにノゾミが笑顔を作ったので、私も思わず笑顔を返せば、互いの視線が揃って、不思議なものを見る目つきを逆に返される。振り返ると、背凭れの裏側に陣取った家族のうち、まだ二、三歳と思しき子供が背凭れの縁に両手をかけてこちらを見ている。子供の視線の先を追っていくと、ノゾミが、母親が我が子を見つめるような、柔和な表情を浮かべている。

 外にでると、初夏のぬるい風が肌を舐めて、指を首筋に這わせれば汗に濡れる感触がある。寄り添うノゾミは熟れたバナナに似た、甘ったるい匂いを発散させながら、涼しそうに歩いている。妙にすっきりと背中を真っ直ぐに伸ばし、私のことを気にしながらも、足取りは確実に前に進んでいる。それでいて、腕は芯の抜けた人形のように、だらりと垂らして、遠心力のままに揺らしている。アスファルトに映った影ははしゃぎ上がって、今にも浮かび上がりそうな気配で、ノゾミの背後を従順に追っていく。見えぬ表情が微笑んでいるように見える。
 私は今更ながらろくに素性を知らぬ客の自宅に向かうこの状況を奇妙に感じている。適当に理由をつけて引き返した方が良いんじゃないかと、相変わらず迷いをちりちりと燻らせている。しかし、迷いがある形に帰着することはなく、燻りのまま、ノゾミに導かれるまま辻を右に左に折れていく。戸建てや低層マンションが立ち並ぶ同じような風景が続く。既に駅までの道筋は怪しい。帰りはノゾミに案内を頼らないと心もとない。外れとはいえ都内で育ち、落ち着いて見渡せば方角ぐらいの見当はつきそうなものだが、駅の方角さえ覚束ない。やがて一方通行のひと気ない通りから車一台通れる程度の裏道に入る。左手は何かの工場なのか高いブロック塀が続き、日の高いこの時間でも薄暗く陰気な印象を与える。そして狭い路地を進んでいくと、少し前を歩いていたノゾミがすっと足を止めて、こちらに向き直り、僅かに首を左へ傾げる。
「着きました」
 その視線の先には、古びた一軒家が控えめに佇んでいる。外観は建売住宅のそれだった。壁はもともとは白壁だったのだろうが、塵埃を浴びて黒く煤けており、築年数を曖昧にしている。マンションやアパートを想像していた私は呆然とする。ノゾミは地方から出てきたものと勝手に思い込んでいた。同世代の女たちと比べると、質素で、どこか垢抜けない服装やぎこちなさの残る受け答えから都会の女という想像が切り落とされていた。自身の見極めの悪さにいよいよ呆れながら、その一方で、これはノゾミの実家だろうかと疑念は残る。部屋が散らかっている、という限定した言い方もその考えを助長している。
「ここで少し待っていてもらえますか、あの子を連れてくるので」
 ノゾミはそう言って玄関に足を進めると、まず鍵が掛かっているのを確認する工程を踏んでから鍵を開け、身が一つ通れる程度に戸を開く。私の視線を妨げるかのように、そそくさと内に入ると、後ろ手できっちりと締める。
 通りに残された私は、風が渡るのを頬に感じながら、ここに至るまでの道程を、振り返り振り返りして、どうにか駅までの見当をつけようと試みる。しかし、いずれも半ばで果てて、一人で帰ることは不可能と同じ結論に至る。車を拾える大通りまでノゾミに頼ろうと自身の妥協案に一人納得する。
 見上げれば鈍色の雲がまだらに広がり、太陽を間も無く覆おうとしている。もう一時もすれば降り出しそうな空模様だった。先ほどの見立ては正しかったようで、駅前のコンビニで傘を買わなかったことが悔やまれた。そのまま、もう一度家の外観を眺めようと二階の辺りへ視線を向ける。
 二つ並んだ窓の一つのカーテンが右から左へ、左から右へ揺らぐ。その時に覗いた隙間に、こちらを見る、長い髪の、ノゾミとは明らかに違う、それでいてノゾミと同じ痩身の女が立っている。背景に混じって黒く潰れた顔からは表情を読み取れない。ただ一方的に見下ろされている。
 他人の家を眺める不躾を見咎められた心持ちがして、一度目を逸らすが、そぞろに惹きつけられ、盗み見るように素早く窓の方へ視線を動かすと、カーテンは閉じている。残像は暫く残る。その後もカーテンはそよりともしない。その隣の窓に、ひょっこりノゾミが立ち、子犬を腕に抱えて手を振っている。子犬と私を交互に見ながら何か呟いているが、声は届かない。
 間も無くノゾミが現れる。子犬を抱いているものと胸元に視線をやったが姿はなく、そのまま足元へ流しても、やはり姿はない。私が問うと、肩から下げたトートバッグを指差す。トートバッグが僅かに膨らんでいる。ノゾミが中が見えるように傾けたので、近づいて覗き込むと、子犬が窮屈そうにちんまりと収まって、目脂を溜め込んだ瞳で見上げている。
 児童公園に向かう道すがら、先ほど抱いた疑問を口にする。ノゾミは違いますと一言だけ答えると、口を噤んでそれ以上の詮索を嫌う様子を示す。それではあの家は、あの女は、と湧いた疑問は行き場を失い、宙を彷徨い、油断すればそのままノゾミの方へ流れそうな、そして流れればそのままノゾミの内側にすっぽりと吸い込まれそうな気がして、口に出かかった言葉を辛うじて押し止める。

 子犬は一歩踏み出したと思えばノゾミの方を振り返る。ノゾミと自身の距離を測っているのか、離れると向きを変えて引き返す。あたかもそこに見えぬケージがあるかのように、ノゾミの半径一メートルほどの距離から離れようとしない。生まれてから数ヶ月間、狭いケージの中で一方的に覗かれる時間を過こせば、その後遺症が残るものだろうか。
「これでも最初の頃と比べて良くなりました、最初は一歩も踏み出さなかったから」
 ノゾミが問わず語りに呟く。頭の中の考えが知らぬ間に漏れ出したかと錯覚する。私の反応を待つ様子はない。子犬にとっての数ヶ月は人間の一年に当たると聞いたことがある。人間の子もまた狭いケージに一年も入れられて一方的な眼差しの下で育てられればこの子犬のようになるのだろうか、と凄惨な想像に捉われる。
 そもそも手さえ伸ばすことのできない子宮の中で膝を抱えて一年過ごした赤児には、自己と世界との境界さえ定かではないのかもしれない。そうすると世界との距離を測る作業は、世界から自己を切り離すことと同意になりはしないか。世界を知れば知るほど、自己の孤独は深まりはしないか。犬に自己という観念が果たして存在するのかは知らないが、いま目の前で竦む子犬を目の当たりにして、ケージの外に出たことが幸福の始まりではなく、幸福の終わりのように思える。ほんの数十歩で端に至るこの公園の周囲を囲む生垣は、子犬にとって無限の闇を含んだ地平線なのかもしれない。
 私は仔犬に対して、憐憫とも慈しみとも形容できぬ、複雑な感情を抱いた。いつしか、地面に黒い染みが落ち始め、微かに雨の匂いが立ち昇る。掌を上に向ければぬるい雨粒が肉の丸みに沿って流れる。
 帰りましょうと言ったノゾミは、子犬を地面に下ろしたその時から一歩も動いていなかった。

 雨は本降りに至らず、霧雨に近い弱い降りであったが、ノゾミの自宅前に着く頃には、互いに全身を濡らしていた。今更ですが、と渡された傘を持って、ノゾミに教わったとおり、辻を折れていくと、案外すんなりと見覚えのある大通りに出て、大掛かりな手品か何かに騙された心持がする。これでは猫町ならぬ犬町だなと自分でも耳に立つほどの声を思わず吐いて、往路の迷いはきれいに忘れている。
 別れる間際にノゾミの言った、また来てください、待っているので、という言葉が、張り付いたシャツの不快な感覚とともにいつまでも粘りついて晴れずに残る。

2-2へ続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?