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中編小説『二人』(3-2)

 今日も隣の部屋の女がすすり泣いている。数日に一度は泣く。何をそれほど泣くことがあるのかと不思議に思う。私には泣くほど悲しいことがあるように思えなかった。こちらの生活音も漏れ聞こえているはずで、壁の薄さを気にせず泣ける自己愛の強さに呆れる。
 壁に指先を当てると、ひっかくようになぞる。続けて軽く指で叩く。壁の向こう側にも明らかに聞こえるように少しずつ強くしていく。最後には拳を作って、叩く。
「うるさい」
 重ねた腕に顔を当ててうつぶせていたノゾミが首を捻ってこちらを見る。
「ごめん」
 自分でも思いがけなく声を出していた。ここ数日、自分が神経質になっているのはわかっている。オーナーの打診も母親からの金の無心もノゾミの沈黙も何一つ解決しないで、頭の中で好き勝手に不協和音となって鳴り響いている。事を進めたくても、考えがまとまらず、苛立ちが募る。今の状況がどうしようもなく理不尽で不条理に思える。世界には今の自分より不幸で、辛い思いをしている人々はいるだろう。しかし、他人が幾ら不幸になろうが自分には関係ない。自分に見えるのはこの六畳の部屋だけで、薄い壁を隔てた隣の住人さえ見えはしない。この部屋には私とノゾミ、カズキしかいなかった。
 ノゾミは顔を伏せて見られるままになっている。頭頂部が少し薄くなっている。額の生え際のちょうど中心部分も心なしか後退している。先日は後頭部に白髪が一本生えているのを見つけた。二十歳のノゾミは普通の人よりも早く老いていっている。
「ねえ」
 先ほどの余韻を引いてか、ノゾミの身体がびくりと反応する。怯えを抱いている、と思う。怯えが自分への反抗のように感じる。違うとは分かっている。でも、抑えられない。ノゾミと同棲を始めてから今まで感じたことのない憎しみを覚える。憎しみは暴力的な衝動となって、いたぶるイメージに転化する。
 身体がそっと立ち上がり、ノゾミの側に寄る。足を垂直に上げると、ノゾミの後頭部に向けてゆっくり下ろす。ノゾミの後頭部の輪郭に土踏まずの湾曲した部分がぴったり重なる。足の裏に毛先が刺さりチクチクする。
「ねえ」
 身体が妙に長く伸びた気がして、ノゾミの後頭部に載った足が遠く、自分のものではないように感じられる。頭を押さえつけられているせいか、呼吸に合わせて上下していた背中の動きが止む。これから決定的な出来事が起きるかもしれないと思いながら、事の進展はスクリーンを隔てた向こう側で起きる他人事のように流れていく。
「ねえ」
 足の裏に不規則な痙攣が伝わる。声を立てないのですぐには気づかなかったが、ノゾミは泣いている。何を泣くことがあるのか。無邪気に泣いているノゾミがやはり憎らしい。隣の部屋の住人と同じで泣くことで哀れみを誘おうとするのか。
「ねえ」
 重心を前に移し、ノゾミの頭に体重をかける。最初は「うううっ」と唸り声を籠もらせていた。嗚咽が強くなる。
「ねえって」
 自分が発した言葉に誘われて、さらに踏み込む。その瞬間、ノゾミが急に頭を逸らして足の裏から逃れる。私はバランスを崩して前かがみになる。
「もおおおおおおおおおお」
 顔を上げるとノゾミが立っている。ノゾミは気が触れたように甲高い声を出す。久々に声を聞いた。半狂乱になって髪を掻き毟る。手に抜けた髪が絡みついている。顔は引き攣り、片方の頬が痙攣している。冗談のような、深い皺が眉間に現れる。膝を何度も叩く。飢えた犬のように部屋の中を行ったり来たりする。握りこぶしを作って、自らの頬に向けて勢いよくぶつける。私は強烈な感情表現の前に茫然と立ち尽くす。
 咄嗟に、クリンチで逃れるように、 「ごめん」と言って、抱きしめた。いやいやと身体を捻って、抵抗される。首を腕を回して身体をぴったりとくっつけて動けなくする。鼻先が首筋に当たり、体臭を強く感じる。「ごめんね、ごめんね」と握った手首から伝わる強張りが収まるまで呟き続ける。「ごめんね」と繰り返し言っているうちに口の中が乾く。まるで喜劇だと思う。

 失語症患者のリハビリのように、少しずつ言葉を搾り出すノゾミの相手をしていた。話す量は劇的には増えない。つかえながら思っていることを伝えようとしている。口を挟まずただ聞いている。数週間の沈黙は自分でもどうすることもできなかったと言う。
「頭に言葉は浮んでも、口にしようとすると、頭が痛くなって、どうやって音にしたらいいのか分からなくなった……」
 私が話しかければ話しかけるほど、ノゾミの意志とは裏腹に、言葉は咽喉の奥で詰まり、喃語のように形のない音が漏れるだけだった。顔を向ければ期待させるばかりと思い、終始顔を伏せていた。それが、結果的に私の残酷な仕打ちを呼び込んだと自分を責める。
 私は、蟠りが残らぬよう自然を装いながら、ノゾミの思い込みに便乗して弁解しない。内心は都合の良い自分に嫌気を感じる。感じるが、実際は自分を正当化するために感じているだけで、浅はかな拘りと知っている。互いに決定的なことは何も交わさず、ただすれ違っている。

 散歩の後、カズキだけ部屋に戻して、ファミリーレストランで食事をした日のことである。注文を済ませたあと、通路を挟んで反対側にいる家族を二人して見ていた。
 運ばれてきたハンバーグにはしゃぐ小さな女の子が大人の真似をしてナイフとフォークを掴もうとする。隣に座る若い母親がそれを制して、子供用の皿に切り分けようとするが、女の子は自分でやると駄々をこねる。母親は小さな反乱にも慣れた様子で切り分けを続け、ハンバーグの一片を口に運んでやる。口に含むと女の子は何事もなかったかのように咀嚼に勤しみ、飲み込むと次をねだる。夫婦は愉快そうに頷きあう。
 そのやり取りを目の当たりにして、「ああいうのが家族なんでしょうか」とノゾミが呟く。私は少し含んだものの言い方が気に障り、受け止めることなく「そうね」と流す。淡白な対応に何かを感じたのか、視線は私の口に止まる。沈黙に落ち込まれると拙いと内心慌て、こちらから言葉を足す。
「ノゾミは家族でファミレスって来なかったの?」
 言った後に、不用意なことを訊いたかと心配になったが、存外にノゾミは笑みを浮かべる。
「私、地元が田舎だから、ファミリーレストランって近くになかったです。でも、喫茶店、喫茶店っていっても大きな喫茶店で料理もいっぱいあるところで、そこにお母さんと姉とよく行っていました」
「そう。いつの話?」
 微かに引っかかりを覚えるが、口にせず逸らす。誘っているのかもしれないが、調子を合わさない。踏み込まない方がいいと囁く自制の声に従う。
「小学生のときです。そこの焼きそばはオムライスみたいにたまごが載っていて、大好きでいつも食べていました」
「美味しそうだね」
「はい。私そればかりで、姉はいつもハンバーグを食べて、お母さんはばらばらだったかな。でも、変なんです」
「何が?」
「あの家族みたいに、楽しそうに食べた記憶がなくて、いつも三人とも黙って食べていたから」
「そう……。そうなんだ」
「はい。家でごはんを食べるときは、お母さんいつもいなくて、姉と二人で食べて、でも姉と二人でいると学校であったことを話したりしていたけれど、喫茶店でお母さんと一緒に食べていると、二人とも黙り込んでしまって」
 わずかにでも不幸をひけらかすそぶりを見せられれば、最後まで聞かずに口を挟んで別の話に転化したかもしれない。ノゾミは十年も満たない過去の記憶を闇の中から手繰り寄せるようにゆっくりと話す。視線はうつむき、時折こちらの方を伺って、話を続けて良いか表情から読み取ろうとしている。その度に相槌を返す。純粋に何かを伝えようとしている、と思う。
「家族って話をしながらごはんを食べるんだと思って」
「そうだね」
「だから、舞子さんと一緒にごはんを食べていると、家族になった気がして」
 家族はそんなに単純ではないかもしれない。何も口にせず、ただ私は頷いた。

3-3へ続く

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