中編小説『二人』(2-2)
何度も通ううち、知らぬ道から通い馴れた道へ変わってゆき、それにつれて迷うことへの不安は薄れ、代わりに通うことの意味を問うて、時間を埋めるようになる。最初は風景に拘って眺めていたが、風景の側から何も訴えるものがなくなると、最初から最後まで単調に流れ、やがて色も形も褪せていく。
不思議なことに、通りで人とすれ違うことはなく、たまに建物と建物の間の狭い通路に、背中を向けて振り返る猫を見かけると、やはりここは猫町が相応しいと以前の思いつきに気を紛らわせて笑う。なるほど、駅からノゾミの自宅まで最短の道を行こうとすれば、レの字のごとく、一度戻る足の運びとなって、方向感覚を狂わせる作用がある。しかし、知恵の輪を外すように、コツを掴むと、迷いはなくなり、道筋をその日の気まぐれで変えても、気づけば同じ場所に辿りつく。
意識はただ内側へ向かう。なぜノゾミに会いに行くのかと道すがら反芻する。何度反芻したところで、固い岩盤の表面をなぞるように、一向にそれ以上深く広がらず、なぞりが次のなぞりへ、機械的な反復を繰り返す。子犬への愛着も足を運ばせる動機になっているとは言い難い。そもそも子犬に対する愛着と呼べるものが自身の内にあるのか疑わしい。
愛着、と私は呟く。愛着は高じれば不幸を孕む。脳裏に過った言葉の表面に、別れを告げてられて公然と泣き出した男を、剥き出しの自己愛で娘を抑えつける母親の姿を重ねる。愛着は、時間が経過すれば、芯にあった情愛は消えて、習慣だけが残る。繋ぎ止めることだけに一途に固執するようになる。そうであるならば、最初から縁など結ばない方が良い、と思う。
では、なぜノゾミに会いに行くのか?
母親の目を盗んでそそくさと家を抜ける。ここ数週間の慣例である。職場のある駅まであと数分というところで、電車を降りてノゾミの自宅へ向う。工場の塀が続く路地に入れば、窓から見て待ち構えていたのか、間もなくノゾミが肩からトートバックを下げて姿を現す。私は性懲りも無くまた来たことの恥じらいを隠すため、薄ら笑いを浮かべ、ノゾミはぎごちない笑いで応える。児童公園へ肩を並べて歩く道中、ノゾミはノゾミの中へ、私は私の中へ耽り、口を噤む。周囲は聾唖感に包まれたかのように静かで、取り囲む人家から人々の営みの気配ははたとも立たない。踵の浅いパンプスと底の擦り減ったスニーカーの足音が、膜を隔てたかのように間遠に聞こえる。
ふとノゾミの肘に触れ合うその瞬間にだけ、にわかに生々しい存在の輪郭が現れる。ノゾミも同じなのか、表情は薄いながらも、触れることを避けようとせず、猫が首筋を角に擦るように、優しく触れるに任せている。男と並んだ時に感じる、慎重に距離を測って、その距離に何か男の意思を読み取ろうとするかのような、緊張が自身の奥深いところで穏やかにさざなみを立てる。
良くないな。そう自覚しつつ、ノゾミの手を握るという妙な想像が指先に凝る。児童公園には私たち二人以外に誰もいない。地面に降ろされた子犬は、その場でじっと蹲り、根を張ったように動かない。正面に立って囃せば、音に合わせて、耳を動かし、瞳に光が宿るが、つかの間のことで、じきに背を向け、視線の先はノゾミの細い身体に移る。ノゾミと子犬との間には安定した膠着状態があり、私はその埒外で、滑稽な道化を演じている。
子犬は未だ私を《私》として認識していない。風に揺れる葉叢や赤錆びた遊具と同じ、ノゾミからノゾミへ流れる視線の間に沈む風景の一部でしかない。私は別段そのことに不服を抱いているわけではない。まだペットショップの狭いケースに閉じ込められていた時から、子犬の私に対する冷淡さは一貫しており、むしろ清々しささえ覚える。ノゾミに対する呆れるまでの従順さを目の当たりにしなければ、無縁に留まる同志として、嗟嘆の言葉を捧げただろう。
今はストイックさは影を潜めて、保護者に縋る幼児に似たあざとさばかりが鼻につく。当然の権利のように自身の未熟さを押し付けている。私は矢庭に幼い頃の自分を記憶の底から掬い上げる。多分に漏れず、世界との距離を持て余し、自分の中に育ちつつある情動の奔放さに戸惑い、誰かの裾を常に握る子供だった。
眼前の子犬の振る舞いが醜悪な擬態となって、私から私を遠ざける。試みに私が代わりにリードを握ればどうなるかと、ノゾミから受け取る。太陽を追う向日葵の花弁さながら、ノゾミの動きにつれて尻を軸に向きを変えてゆき、私はその尻と終始向き合うことになる。
「酷い仕打ちだよ」
私は冗談交じりに、子犬の理不尽な態度を訴える。
「もっと長い時間を一緒に過ごせば変わります」
ノゾミの口調は柔らかいが、少し芯が残る。巫山戯た調子が共感されなかったことに一人突き放された気がして、私は憮然とする。三白ぎみの狭い瞳の中心に私は映っているのかと不安を覚える。店に通われて気を重くしていた立場が気づけば反転し、今や私が通う構図となる。疎ましさや焦燥が綯い交ぜになった漠とした感情が蟠り、私は木偶のように立ち尽くす。公園をぐるりと取り囲む木々から、姿の見えぬ複数の鴉が咽喉を絞って鳴きあっている。そういえば、この子犬の鳴き声を未だ聞いたことがないとその時になって知る。
別れ際に、ノゾミは、また子犬に会いに来てください、と言う。その一言が私に呪術めいた効果をもたらす。きっとノゾミは、私を誘導している、と思った。
2-3へ続く
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