中編小説『二人』(2-4)
お互いに、相手の素性を深くは問わず、自らも明かさなかった。取り決めをしたわけではない。ノゾミの本心は定かではないが、私は意図的に避けていた。こちらが明かせば望まなくても返報を押し付けることになる。それは畢竟、ノゾミがどこの誰で、この家のこの一室になぜ一人で暮らしているかに行き着く。
一時の興味に惹かれ、何重にも絡まり、ほどく糸口さえ掴めない問題を引き寄せることを私は恐れた。長い時間を共に過ごせばやがて明らかになっても、今の私は可能な限りそれを先延ばしにしたかった。既に背負った負債の重みが、些細な負債も避けたいという、吝嗇家の態度を私に身につけさせていた。それでも、ただ一度だけ、私は自身への契りを破る。それが同棲への契機となる。
既に習慣となった公園との往復の帰り道、ふいに言葉が喉奥から込み上げ、母親が退院してから言動が異常であると愚痴めいたことを口にしていた。連日続く母親からの攻撃によほど神経が参っていたのか、見慣れつつある風景に気を取られたのか、戒めていたにも拘らず、呆気なく検閲をすり抜ける。話している間、横に並ぶノゾミはさほど反応を示さず、時折顔を上げ、空を見上げては、また俯いて地面に視線を落とした。本人は気づいているのかいないのか、ノゾミには人の話を聞く時に顔を方々に動かす癖がある。神経質な印象を与えるものではない。顔の動きに合わせて視線は定まっており、考え事をする時の癖のようだった。実際、話し終わると、一呼吸置いてから、それじゃあ舞子さん私と一緒に暮らしませんか、と言った。声こそ小さかったが、いつものようなたどたどしい調子ではない。店で子犬を飼っていると告げたときと同じで、暗記していた言葉を読み上げるように、淀みがなく、抑揚もない。今思えば、タイミングを見計らっていたのかもしれない。
私は唐突な提案に戸惑い、迷惑だからと断りを口にしかかれば、ノゾミは機先を制して、舞子さんが一緒にいてくれると嬉しいと続ける。その後は、何を言っても、大丈夫です、と意固地に繰り返す。決定事項として、私の異議申し立てを一切受け入れない。積もり積もっていたとはいえ、ノゾミに解決を求めたわけではなかった。何がノゾミの使命感に響いたのか、それとも折良く密かに考えていた計画を後押しする材料を与えたのか。ノゾミは頑なで、結局その日は説得を諦め、引き下がるしかなかった。
次に顔を合わせた時に断るつもりでいたが、駅まで迎えに来たノゾミは開口一番に日取りを訊いてくる。
「考えているけど、少し待って欲しい」
「そうですか、でも辛いんだったら早い方が」
私は食い下がるノゾミに対して曖昧に答えて、傷つけぬように細心の注意を払いながら、結論を先に延ばした。躊躇いの理由は、ノゾミにあるわけではない。私は家を出ることによる母親への作用を恐れていた。今の母親には条理が通じぬ。母親への恐怖があらゆる判断に介入し、私を萎縮させる。
「ごめんね」
何の意味も持たない言葉を言ってみたが、ノゾミは反応を示さない。私の保守的な回答に当然納得はしていないようで、その日はそのまま内側に籠り、口を開かなかった。
ノゾミもまた条理の通じぬ存在だった。
二つの条理の通じぬ存在に挟まれて、半ば思考停止の状態で、なるようになれと捨て鉢に振り切ることもできず、一週間が過ぎた。その間、ノゾミからの連絡はなかった。
ノゾミは携帯電話を持っていない。昔は持っていたが、理由あって持つことをやめたと言う。連絡を取るときは、いつも公衆電話から電話をしてきた。私が電話に出られないときは、留守録に日時と「待っています」と言葉を残した。このまま連絡が来なければ家に押しかけるしか仕方なく、ノゾミと私を繋ぐ縁の心細さを今更ながら感じた。しかし、結論が出ぬまま足を運んだところで、相手にされないのは目に見えていた。
ずるずると時間は経過し、このまま関係が途切れるものと覚悟しかかったある日、早朝仕事が終わって、螺旋階段を降りると、ノゾミが立っていた。ノゾミは固く口を結び、何も言わない。目は暗く座って、私の不義理を訴えているようだった。
私たちは向かい合った。始発電車が動き始めてさほど経っていない時間で、恐らくノゾミは夜が明ける前に自宅を出てここまで歩いてきたのか、あるいは昨日の夜からこの場所で待っていたのか。いずれであっても驚きはない。
傍から見ればノゾミの行動は異常に映る。条理ではない。きっと不条理には不条理の理屈が存在する。常人とは違うやり方で組み上げるが故に、組み上がった結果だけを見れば理解不能の不気味なもののに見える。しかし、それはやり方の違いに過ぎない。私は、ノゾミの不条理な行動の根底にある純粋な欲求が痛いほど理解できる。私はつべこべ言わずに、大きく頷いてあげたい衝動に駆られる。
だが、その瞬間、母親がヒステリックに捲くし立てる姿が脳裡を過ぎり、賽を振ろうと勢いよく振り上げた腕は途端に勢いを失う。それでも、どうにか勇を鼓舞して控えめに振り下ろす。私は週の半分、一日置きにノゾミの部屋で過ごすことを約束した。
母親には言うか言わぬか悩んだ末、何も言わぬままにすれば電話なりメールなりで猛烈な追撃を浴びそうな気がして、かと言って嘘を言ったところで病後に備わった猜疑心をかわす自信もなく、「友人の家に泊まる」とそれ自体は嘘ではない言い訳を、神経質な手付きで洗濯物を畳む母親に向かって告げた。
「友達って女の子なの?」
「うん」
猜疑の色が眼に少し翳ったが、やり取りはそれだけで済んだ。しかし、泊まりが幾日も続けば、やがて母親はそれが一過性のものではないと感づくだろう。その時のことを考えると、鳩尾の辺りが鈍く痛み、吐き気さえ覚える。ノゾミと暮らすことは母親からの逃避であったが、母親の眼差しは私の内面の深いところに鎮座し、私の一挙手一投足を監視する。私が何かしようと試みるたび、否と唱えて竦ませる。片方の足は踏み出したが、もう片方の足はいつでも戻せるように宙空に留まる。それが今の私の限界だった。
それでも、私とノゾミ、そして子犬との同棲生活はこうして始まったのだった。
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