決心 妻が死にました。(8)

雀荘で過ごした日々、多くの客たちと一緒に卓を囲んだけれど、ほとんど話はしていなかった。人とまともに話すことができない。音や光の刺激がきつい。文字を読んでも、頭の中で意味を成さない。文字を書くこともほぼ完全に無くなっていたので、ペンを持つのも辛かった。手がうまく動かせない上に、漢字が思い出せない。力の入れ方が曖昧なので、まさにみみずののたくっているようなひどい文字しか書けなくなっていた。

たまに家に帰り一人になると、激しい気持ちの高ぶりに襲われ、泣きわめき、床をたたいた。身体にほとんど残っていないエネルギーを使い果たすと、ベッドにもいかずに床でそのまま眠っていた。全身に泥のようにまとわりついてくるイヤな汗をかきながら、常に覚醒して感覚が敏感になっている状態で目を瞑っているだけの眠りだった。

食事はウーバーイーツを頼んでいた。ウーバーイーツは顔も合わせずに食事を受け取れるのが素晴らしい。このときはコンビニのレジで会計することすら難しい精神状態だった。栄養状態が偏り、動かないまま高カロリー摂取を続けていたぼくの身体は、たった一か月で見るに堪えないほど醜く太っていった。

見るからに身体の状態が悪く、精神的にも明らかに異常をきたし始めていたぼくの状態を見かねた看護師の従妹が、自分の勤める病院の精神科の先生を紹介してくれた。

最初は断った。人と話すことができるとは思えなかったから。それでも従妹は根気強くぼくを説得してくれた。人に話すだけでも楽になれることはあると思うよ。目を見て話さなくもいい。いまの気持ちを整理する必要もない。ただただ思う事を吐き出していって、聞いてもらうだけですごく気持ちが軽くなることもある。ずっと暗闇で一人で闘う必要なんてないんだから。みんなが応援しているよ。

彼女の説得はしだいに心に響いていった。必死になることなんてない、こころのままに。意味のある言葉として人の話を聞けたのは、妻がいなくなってから初めてだった。

精神科。自分が精神科で治療を受けることなんて想像すらしたことがなかった。ひどくブラックな企業で延々と残業を重ね、パワハラ気味の上司の言葉をスルーし、働いてきた。ぼくにとっては職場のストレスなんて大したことはなかった。職場のストレスでこころや身体を壊すのは、弱い人だと思っていた。でも違った。人間はストレスで簡単に壊れる。その人自身の強さなんて関係なく、圧倒的な絶望は容赦なく人間を壊しにかかってくる。

自分がそうなってみないとわからない。言葉にするのは簡単だし、他人に言うのも簡単だ。でもその言葉の重さを自分自身で体感しないですむのはとても幸福な事なんだと思う。ぼくの心が壊れていく経過で、ぼくにはまったく恐怖感がなかった。何かを感じる能力が完全に欠如していた。喜び。怒り。悲しみ。笑い。暑さや寒さ。空腹。痛み。悔しさ。妬み。恐怖。あらゆる感覚、感情が無くなっていた。それなのに、絶望感だけはとてつもなく重く、毎日毎日ぼくの心と身体を押し潰しにかかっていた。

どこまで壊れていくのか。死ぬまで壊れ続けるのか。それとも踏みとどまれるのか。その境界線は自分自身の力だけではなく、周囲の人の関わり、優しさがとても大切なんだと思い知った。事実ぼくは周りのあたたかさに救われて人間に戻りつつある。ただ、その思いやりに気づき、受け取れるようになるまで少し時間がかかった。

従妹が先生を紹介すると言ってくれてから一週間ほど経つまで決心がつかなかった。以前持っていた精神科への偏見が、壊れた精神状態によって増幅され、行くと返事をするのを戸惑わせていた。それでも、自分自身でも今の状態はかなりまずいと自覚を始めていたぼくは、先生に会う決心をした。

一人でいるのは良くない。これまで何人にも言われてきた言葉だったが、だんだんと実感を帯びてきていた。ぼくは先生に診てもらうために久しぶりに身なりを整え、電車に乗っていた。


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