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「お前の今までの人生ボコボコにしてやるからな」~ミャンマー高僧からの一言~

ミャンマーの僧侶体験を決心


「お前の今までの人生ボコボコにしてやるからな」

ミャンマーの高僧と出会い「僧侶の体験をしてみないか」と言われた直後に、優しく投げかけられた言葉。

その高僧に会うために、岐阜県まで出かけ、講話を聞いた後のことです。
2004年の初夏でした。

「えっ?私がミャンマーで僧侶に?」
「ボコボコ?怖すぎる。。」

人生に失望していました。40歳で離婚をされてしまいました。銀行員を辞め、役員に就いたヒーリングセラピーの会社での仕事も上手くいかず去ることになり、もう閉ざされてしまったかのような人生だったのです。

1カ月ほど悩んだあと、そのときの自分の状況をなんとか打破したい思いで、ミャンマーで得度(*)することを決心しました。

* 得度(とくど):僧侶となるために世俗の生活を捨て仏道を修行すること。




戸惑いばかりの僧侶体験


「ボコボコにって、どれだけ厳しいんだろう?」
「2年ほど前の禅寺での修行よりも厳しいんだろうか」

(その座禅の修行は、警策(*)のあとが20年後の今も肩に残るほどの厳しいものでした。)

* 警策(きょうさく、けいさく):坐禅のとき、修行者の肩ないし背中を打つための棒

2004年の秋、ビクビクで行ったミャンマーでしたが、それは良い意味でいらぬ心配でした。

拍子抜けするほど「何をしなさい」ということを言われなかったのです。

得度式(お坊さんになるための儀式)を受け、どこからみても「いま、お坊さんになりました!」感満載の新人坊主の誕生。



そのとき、私の他にアメリカ人2人も得度しました。

岐阜県で講和を聞かせてくれた杖をついた高僧は、はじめ私たちに何をしろとはまったく言ってきませんでした。

「お寺で何をすればいいんだ?」
「何かを教えてくれるんじゃないの?」

なにからなにまで分からないことだらけ。
言葉も通じないし。。

私が入った僧院は首都ヤンゴンの郊外にありました。

70人ほどのお坊さんたちが分かれて寝泊まりする小屋が4~5つ、200人ほど入る大きな講堂、それに一度に50人は入る木造の食堂が主な建物でした。

外国人3人で12畳ほどのひとつの小屋が割り当てられました。

固いタイル張りの床は、砂でざらついてるし、ふつうにアリが歩いているし、クモもヤモリもたくさん。

学生時代、南米のアマゾンやユカタン半島を放浪したので懐かしさも感じられたのですが、その部屋にあったのはひとり一枚の薄いゴザだけ。

古いバスタブにはられている水には緑色の藻(も)が浮かび、カエルが遊んでいました。(その水で水浴びするのです)

夜、ゴザから伝わってくる床のひんやり感を背中で感じながら、

「あ~ミャンマーで坊主になったんだなぁ」と思ったのを覚えています。

お坊さんの生活やきまりはどのようなもの?
お経はどうやっていつあげるの?
お坊さんはどのように食事をするの?

僧院で瞑想をしながら、お坊さまがやっているNPO活動(支援物資を村に届ける奉仕活動)にも参加させてもらったのですが、戸惑うことばかりですべて見よう見まねでやっていくのでやっとでした。



自分で考え、自分で行動する


何をするにも全て、「自分で考え自分で行動する」ことが基本でした。

「自分はサラリーマンだったし、結婚してマイホームを建てた経験もある、自分で考え自分で行動するなんて簡単じゃないか」

と思っていました。

でも、僧侶としてのそれは今まで自分が思っていたものとはまったく違ったものでした。


地方の村に行って支援物資を配っているときです。

ひざをついて物をうけとる村人に、効率よくさばこうと立ちながら物資を手渡ししていたら、杖の高僧から

「同じ目線でわたしなさい。受け取る人の気持ちを考えなさい。」

と言われました。

それまで効率ばかりを求め、相手の気持ちもよく考えていなかった自分を恥じました。



ある村にいってお米を何十俵と配ったとき。

村を代表してお坊さんたちが列をつくって米俵をうけとります。

「ぼーっと見ているだけでは、あの新人お坊さんは偉そうにしていると思われてしまう。。」

私も米俵を手渡すのを手伝おうとしたところ、杖の高僧から、

「お前はやらんでいい。同じ法衣を着ているものから施しをうける坊主の気持ちを考えろ」

との声が。

「よかれ」や「他人の目」で自分の気持ちだけを優先して、相手のことを考えていなかった自分を悔しく思いました。

数えればきりがありません。



これまでの考えが大きく変わった!


学校教育や会社内での「自分で考え自分で行動する」の考え方もありますが、今の私にとっては、

「損得ぬきに、見返りを求めず自分のハートでどれだけ実践できるか」

というものだと思っています。

自主性、自発性の奥にある、
「それは、あなたのハートからでているものですか?」

ということを大事にしています。

そして、それが他人に迷惑をかけない限り

「99人が NO でも、自分は1人それを YES と言えますか?」

ということでもあるかと思っています。

自分が持っているプライド、執着、エゴ、世間体など。
それらが邪魔をします。

今もまだまだ執着やエゴはあります。

でも、数週間の短い期間でしたが僧侶となって異国で瞑想し、損得抜きでおこなうNPOの活動に参加したことで、それまで頭に詰まっていたものが ’静かに崩れて' いきました。

ミャンマーに行く前に杖の高僧から言われたことばは、

「自分でいままでの人生をボコボコに壊すきっかけを与えてやるからな」

という意味だったのです。

このことに気づいて以来、自分のことばと行動が一致しはじめ、人間関係も含めて自分がおこなうことがスムーズに流れるようになりました。

この経験は、わたしが運営している小さな宿でスタッフがいつも心がけている「今、この瞬間に、どのような心で、何をするか?」という心構えにつながっています。

「お前の今までの人生ボコボコにしてやるからな」

ミャンマーの杖の高僧が今の私を見たら、何と言うでしょうか。
「まだボコボコが足りん!」と叱られるかも知れません。



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