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夢見るアレッポ石鹸

誰かに、海外での印象的な出来事はと聞かれると、僕は、すぐにアレッポ石鹸のことを思い出してしまう。そう、今は幾分か沈静化したが、もうずっと大変なことになっていたシリアのアレッポ名産の石鹸のことだ。何がどう違うのかわからないが、肌によく女性に人気とされているアレッポ石鹸。実際に使ったことはないけれど、灰色でゴツゴツしていて、美肌になるとはとても思えない。実際に使った人の意見を聞いたことがないのでなんとも言えないのであるが。

 2008年、僕はとある事情でやむなく勤めていた出版社を辞め、フリーランスのライターになった。本格的に活動する前に、海外放浪をしようと決めていた僕は、行き先を中東に定めて、単身トルコに向かったのだった。1ヶ月ほどトルコ国内、イスタンブール、サフランボル、パムッカレ、カッパドキア、イズミル、アンカラなどを放浪したあと、飛行機で、エジプトへ。エジプトも国内を周り、カイロ、ナイル川沿いを下って、ルクソール、アスワン、最終的にヨルダンとの国境にあるリゾート地、ダハブにたどり着いていた。そこに行き着く前に、何度か目にした、アレッポ石鹸を爆買いしたバックパッカーたち。日本に輸送して、一儲けすると言っていたが、本当にそんなことができたのだろうか。メルカリもない時代、相場を調べるのにも一苦労である。ただ、アレッポ石鹸は、単身海外に乗り込んできたバックパッカーたちのある種のコミュニケーションのきっかけとして利用されていた。

 それから長い月日が流れ、こうして僕はなんとかライターとして生活している。中東情勢はあれから激変し、安全に行ける場所も少なくなった。その点ではあのとき、中東に行くことができてとてもラッキーだったと言えるが、シリアにいけなかったことはちょっと後悔している。本当は、エジプトからヨルダンに入って、シリア経由でトルコに抜ける予定だったのだが、諸事情があって諦めたのだ。そして、アレッポ石鹸を買えなかったことも。当時買っていたら、今なら本当に高値で売れるのではないか。そんな夢みたいなことをときどき考える。あのときこうしていれば。そんなことを考えてもしかたないのだけれど。

でも、あれから、旅の方法もすっかり変わった。原因は、知っての通り、全世界的なインターネットの本格的な普及である。今では、どんな貧しい国でも、みんなスマホを持っている。僕が旅したときは、スマホなんてなかったし、僕は旅には基本的にパソコンは持っていかなかった。今では、現地の美味しい店が知りたければネットで調べればすぐに出てくるし、グーグルマップのおかげで道に迷うということもなくなった。つまり、ゲストハウスや道端で、他のバックパッカーや現地の人とコミュニケーションする必要がほとんどなくなってしまったのだ。アレッポ石鹸の日本での相場も、前出の通り、メルカリですぐ調べられてしまうのかもしれない。今、旅に出て、ゲストハウスに泊まると、みんなラウンジで、一心不乱に無言でスマホやパソコンに向かって何かしている光景に出くわす。で、何をしているのかと言えばチャットをしているのである。目の前に人間がいるのにも関わらず。やはり本来、人間はコミュニケーションをしたい生き物なのだ。これをいびつととるか、現代的ととるかは、意見が分かれると思う。ただ、このような環境だからこそ、「偶然」のコミュニケーションがより価値を持つし、大切になってくるのではないかと思う。

かつて、バックパッカーの道と呼ばれるものがあった。情報が限られていた時代、数少ない情報を頼って旅をするため、みんな同じ道を通る。したがって、どこにいっても同じ人と顔を合わせることになるというものだ。

秘境に行けば行くほどそういう傾向があったと聞く。自由旅行といっても、そんなものだったのだ。果たして今は、情報が錯綜しすぎていて、本当に誰とも会うこともない、「真の」自由旅行ができる時代になったのかもしれない。

僕がトルコを旅したとき、パムッカレで、韓国人の20代前半の女の子に写真を撮ってと頼まれた。僕はこころよく写真を撮ってあげた。そのときはその場で別れた。その後、僕はエジプトに飛行機で移動したのだが、なんとその子が同じ飛行機に乗っていたのだ。しかも僕はパスポートが切れてフライトを1週間ずらしていた。その子は、僕が日本に帰ってからしばらくして、ワーキングホリデーで東京に滞在しにきたので、何度か遊びにいったが、何もなかった。また、そのエジプトでは、紅海沿いのリゾート地、ダハブという街にあるゲストハウスに宿泊したら、その宿で住み込みで働いていた日本人が大学の同級生だった。会ったのは卒業式ぶりだった。

これが、バックパッカーの道亡きあとの、現代の「偶然」のコミュニケーションだろう。旅のスタイルは変わっても、人間の根源的欲求は変わらない。しかし、逆に、これくらいハードルが高くなければ、人と人が直接話すことはないのかもしれない。

こんなこともあった。

高校時代の友人がインドに転勤になった。デリーの近郊にあるグルガオンという新興都市だ。IT企業群と新しいライフスタイルという切り口で現代インドの象徴として語られる都市だ。

じつは僕もこの街に行ったことがある。まったくの偶然だ。2007年、僕は休暇を利用してインド旅行に出かけた。LCCなんて当時はないから、一番安い中華系の航空会社を使っても14万円くらいしたと思う。成田発、北京経由、ニューデリー行き。

北京での乗り継ぎでひとりの中国人の青年と出会った。僕が読んでいた小説を不思議そうに眺めながら、それを書いている作家は誰だい?と話しかけてきたのだ。僕が読んでいた本は、舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日』。上下巻の分厚い本だ。文庫ではない。なんでこんな重い本をわざわざインドまで持っていこうと思ったのか。今となっては知る由もない。しかし、結果としてはよかった。出会いのきっかけをくれたのだから。

向こうは英語ペラペラで、僕は英語が苦手だ。彼の話を必死に聞き取り、質問を投げた。

彼はJACKと名乗った。中国の天津生まれで天津大学を卒業したあと、中国のIT企業としては最大手になる華為(ファーウェイ)という会社に就職した技術者で、年齢は26歳。メガネをかけていて、細身の体。見た目は日本人とあまり変わらない。インドにある支社で3ヶ月間開発を行うためにムンバイに行く予定だが、その前にデリーで打ち合わせがあるためにこの飛行機に乗ったということだった。

年齢も比較的近かったので(このとき僕は29歳だ!)なんとなく波長があった。とりとめのない話を続けていると「今日のホテルはどこなんだ?」と彼が聞いて来た。僕はホテルは決めてない。デリーの街に出てから適当に探すと答えると、凄くびっくりしたようだった。

「それは危ないよ。よかったら、僕の社宅に部屋がひとつ空きがある。そこに泊まればいい」と彼は言った。

僕は渡りに船と快諾し、深夜の空港につくと、路上で寝ているインド人をかき分け、彼を迎えに来ている会社の車が止まっている場所まで向かった。

インドの最大の難関は空港を出ることとよく言われる。タクシーが目的地に連れて行ってくれないのだ。夜中に旅行代理店に連れて行かれ、契約しないとここで下ろすと脅されるパターン。そんな話も聞いていたので、ラッキーだなあと思いながら、僕は車に乗った。車から外を眺める。もやっとした熱気で街の灯がぼやけて見える。

そうして、40分ほど車を走らせてついた場所が、グルガオンの一角にあるマンションだったというわけだ。警備員のいる門を通り中に入る。

僕はファーウェイの社宅の一室に泊まらせてもらうことになった。冷房はなかった。蚊帳がベッドに吊るされていた。マンションに5人以上はいたと思う。有名な企業なのに、そこまで豪華じゃないんだと思った記憶が残っている。僕だけ、個室で申し訳ないなと思いながらも、自分の部屋にいることはなく、夜通し、JACKの部屋で色々と語り合った。それは、とても今インドにいるとは思えないような、和やかな時間だった。初日からこんなにうまくいっていいのだろうか。あとからとてつもなくひどい目に会うのではないか。まるで舞城の小説のトリックにハマっているようだった。まあ、僕の予感は現実になるのだが。結局、僕はこのあと、バラナシに移動してガンジス川で沐浴し、腸チフスに罹患、日本で、一ヶ月以上入院することになる。おまけにその病院が僕の入院中に不祥事を起こし、当時の与党自民党の厚生大臣、舛添要一が来ることになって、病院を報道陣が取り囲み、メディアスクラム。ある週刊誌の記者だった僕は内部から取材しろと命令が飛んで、てんやんやだった。死にかけているというのに。

話がそれた。

ただ、ここには「偶然」の物語は存在しているが、しかし「必然」の物語は存在しない。

バックパッカーのバイブルと言われる『深夜特急』の著者、沢木耕太郎は、優れたノンフィクションを書くには、偶然を味方につける必要があるとエッセイで述べている。しかし、物語(人生)には「偶然」かつ「必然」さが必要なのである。では、「必然」とは何か。この場合、「必然」のコミュニケーションとは何か。それは少々大げさな言葉になってしまうが「運命」というものなのだと思う。運命を感じるために、僕らはまた、旅に出て、自分自身の物語を紡ぐのだ。それがたとえ、アレッポ石鹸でたてた、泡のような日々であったとしても。

#創作大賞2023 #エッセイ部門

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