ぽふぽふ

スキゾイド的なもの

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最近の記事

創作

創作とは排泄的であるとよく言われるが、果たして私は創作物を排泄物だとか、産み出した子どもであるとか思わない。 それは単なる創作物であるし、そこになんらかの美があるなら美を感じさえするのだが。 これは、石化の魔法によるものかもしれないし、ただの創作感の違いかもしれない。 ただ分かるのは、創作するにはなんらかの圧力というか、アウトプットするだけのインプットのような圧力が必要だ。 そこには、ただなんらかを食べる、摂取するだけではダメで。その情報量だとか圧力に自分がちょうどよ

    • どちらにも困難を抱える

      外部的である限り、偽りの自己であるし、それがもともとは内部的な動機であったとしてもエネルギーが外部へと向かう動作をする限りは偽りの自己にならざるを得ない。それをしないでいるということは、真にひきこもりの立場を取るしかない。 ある程度の折り合いをつけて、自らの存在を表現して生きているに過ぎない。 かといって、社会的なものは全て外部的であるのだから、社会的な世界に生きる限りは偽りであるという感覚を捨て去ることができない。 偽りの自己なんぞ使わずに生きたいと望むのであったとして

      • スキゾイドの石化は、対人に限らない??

        スキゾイドならよく、周りの人間を石化しつつ過ごしていると思う。 それは勿論、感情的なやりとりや表現によって呑み込まれなどの不安を引き起こさないように防衛してる訳だが。 実は、対人のみならず、対物、対事象にも石化のまじないをかけてはいないだろうか。 さらにいえば、それは人工的な物体や事象であるほど石化しやすく、逆に自然的な流れや実体には石化を加えていないような感じがするのである。 スキゾイドなら複数人での旅行だとか、イベント自体に喜びを感じにくく、それよりは、1人で黙々

        • 人生はなんとかなる

          私は、「人生はなんとかなる」と思って生きている。 思っている、というよりもはや、信仰や祈りに近いかもしれない。 しかし、私自身がこの祈りを裏切らない限り、つまり、信じ続ける限りにおいて、この、人生はなんとかなる。が私を裏切ったことは無い。 というか、信仰というのはそんなものだろう。 基本的に信仰とか価値観とかいうのは人間が作り出して勝手に決めつけて信仰してるだけなのだから、概念とか神とかが向こうからやってくるなんてことは無い。 だからこそ、概念だとか神だとかが、私とい

          分からない漫画達

          大友とか藤本タツキ的世界観はどうも、私には刺さらないようである。 もっとも、一般的な友人諸君には興奮する漫画らしいのでやはり「私に」ささらなかったということであろう。 ああいう、人間の欲とか葛藤とか感情とかいうものの爆発的、圧迫的な表現はどうにも汲み取れないところがある。 周りの友人は、その葛藤とか主人公とかに感情没入して楽しむのだろうが、私はそもそも登場人物をコマ(駒)のように捉えてしまうクセのせいで、1人に没入するだとか、感情の爆発だとかには感応できない。 それよ

          分からない漫画達

          スキゾイドが孤独から逃れる応急処置

          家の中に幽霊を存在させること。それは私を必要とする魔法の幽霊である。

          スキゾイドが孤独から逃れる応急処置

          AED分からないからやりません!!←コレ

          正直、倒れてるのが女性だからとか、やり方が分からないからとか言われて、ためらう人が多いだろうが、問題はそこじゃない。 「AEDは大事だからやれ!」 としか言わないで心肺蘇生ってなんなのか教えないのが悪いと思う。 そんなの、選挙は大事だから行け!と言われても行かない若者と変わらない。 実はよく分からないからやらないだけだ!! 面倒だし、リスクもあるならやらない方がいいに決まってるさ。 では、 心臓が止まってるってことが、どういうことなのか、「一瞬」で説明すると 「心

          AED分からないからやりません!!←コレ

          小手返し不可能問題

          ほとんどの合気道家は、小手返しを決めることが出来ないと思う。普通に当身やステップを使う格闘技経験者、あるいは一般人相手にでさえ小手返し一つ決めるのは相当難しい。 何故なら、ほとんどの流派の小手返しは、相手が崩れること、あるいは崩せることを前提としている。そしてその根拠は相手の当身の拳を捌くことにある。 しかし、普通であれば当身の拳は打った後に引き戻すことで、体勢が元に戻る。 ボクシングや空手でも、ちゃんと引き戻すから次の拳を打ち込める。であるならば、ほとんどその人間の体

          小手返し不可能問題

          本を読むのに使う右脳左脳

          本を読むのに、使う脳が違うようだ。最も哲学とか科学とか論理性が引き立つ文を読んでいると「右脳的」な視覚的部分は弱まって、むしろ「左脳的」な言語理解的な部分が強まっているようである。実際に、視覚的に理解というものは論理だらけの文章には難しい。数学なんかもそうなんじゃないだろうか。正直、私はこちらの左脳的な理解は難しいし苦手だ。もっとも、右脳的で視覚的、感覚的な理解の方がずっと簡単に感じる。であるから、本を読んでいてもファンタジーだとか、視覚的、感覚的表現に富んだものの方が楽しい

          本を読むのに使う右脳左脳

          記憶を創るということ

          夢の内容を起きてしまってから思い出すのは難しいというが、実は、「現実」の私の行動を思い出すのも難しい。 ほとんどが記憶を思い出す時、一瞬の限定的な写真記憶が呼び起こされるのみであって、具体的な行動や一挙手一投足は記憶されていない。無意識の目線の変化や、身体の動きは記憶しきれていない。 例えば、今日は〇〇に会ったという印象は思い浮かぶが、その時の目線、重心、身体の位置は全く想起されない。まるで、そんなもの無かったかのようだ。あまりにも基本情報すぎて刺激として認識されていない

          記憶を創るということ

          現在を交換し続ける人々

          人間とは普段より、何をせずとも未来には漠然とした希望を持ち、今を生きる幸福感を抱けるようではないといけないのだと思う。 何かにとらわれ、焦りや不安が常に頭から離れないようではいけないのだと思う。 明日の事は、どうだとか、1週間後にはどうだとかそう言った事ばかりにとらわれていて良いのだろうか。 決して、何もするなとか、苦しむなとかそういうわけじゃなく、何もない日常であるならばこそ、微々たる幸福感を常に抱けるようでなくてはならないのではないだろうか。 何かを、手に入れなけ

          現在を交換し続ける人々

          タイパ麻薬と焦る現代人

          現在では、インターネットやsnsの台頭により、多くの人が現実社会だけでなくバーチャル世界でも居住地を手に入れたようだ。 特に若者は、小さな頃からそのニ世界を行き来しつつ生活することにこれから慣れていくのかもしれない。あるいは、もう既にその感覚は常識のようなもので、わざわざ区別するような次元では無いということかもしれないが。 しかし、バーチャルな世界が盛り上がり、活気を孕み、面白いコンテンツを生み出してくると人々の多くはバーチャルな世界によりのめり込むようになる。 もちろ

          タイパ麻薬と焦る現代人

          合気道における間合い

          合気道における間合いとはなんだろう。当身を入れることもあるし、かといって基本は掴んで投げ技になる。 掴むということは、柔道と同じで相当な接近戦となる。 例えば、ボクシングなら拳の飛んでくる間合い。 キックなら足の間合いなど、 どんな技を使ってくるかで間合いが決まる。 では合気道の間合いはどこなのか、植芝盛平はどう考えたのか。 ただ、技を覚えようと稽古するのではなく、 そこを考えてみると、この武術はより面白いように違って見えてくる。 (ちなみに上の画像は拳、足、投

          合気道における間合い

          スパーリングしない武道ってマジかよ

          おいおい、またこの手の話か? と思われるかもしれないが、スパーすることであなたのその武道を本当に適用できるものにする可能性を秘めているのがスパーリングだと思うのである。 もちろん、本気で殴り合えなんて言えないし、それは危険だからやるべきでない。 だから、そういう武道こそ「マススパー」をやるべきだと言いたい。 いわゆる寸止めスパーリングである。 なんなら、そういった状況から一手だけ出す、二手だけ出す。そこに技を出せるか、捌けるか、そんな短い練習でもいい。 とてつもなくゆ

          スパーリングしない武道ってマジかよ

          武術の極意を得る秘訣

          空手、柔道、拳法、合気道、剣道、システマ、サンボなどなど、、 世の中には様々な武道、武術が存在する。 そして、その歴史の中心には必ず、天才や強者が存在することでそれらの技術体系を担保している。 時に、それらの武術には一般人が想像もつかないほど強力な技が存在する。 それでいて、その技は一定の師範や天才のみが使える技であったりする。そのような技はよく武道の極意だとか奥義だとか言われているが、どのようにその極意に迫るにはどうすれば良いか。 それはいつの時代も我々、凡夫には課

          武術の極意を得る秘訣

          スパーリングこそ実戦的?

          合気道や古武術なんかを見ているとスパーリングや試合が無いのに本当にその技術は使えるの? と思うことがある。 古武道の型などを見ても、明らかにこれは実戦使用は難しいだろうというものがある。 ではスパーリングをやれば良いのだろうか? これに関しても懐疑的である。私は必ずしもスパーリングや試合が実戦力を鍛えるとは思っていない。 スパーリングや試合では、決断力や反射神経、間合いや相手の動きなどを学ぶのにとても優れている。 しかし、問題は実戦は試合やスパーリングとは違ってし

          スパーリングこそ実戦的?