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スキゾイドの石化は、対人に限らない??
スキゾイドならよく、周りの人間を石化しつつ過ごしていると思う。
それは勿論、感情的なやりとりや表現によって呑み込まれなどの不安を引き起こさないように防衛してる訳だが。
実は、対人のみならず、対物、対事象にも石化のまじないをかけてはいないだろうか。
さらにいえば、それは人工的な物体や事象であるほど石化しやすく、逆に自然的な流れや実体には石化を加えていないような感じがするのである。
スキゾイドなら複数人での旅行だとか、イベント自体に喜びを感じにくく、それよりは、1人で黙々と打ち込んだり、活動することに意義を求めがちだが、むしろ対人的な要素そのものを排除するために石化を多用している様に思える。
石化の魔法を多用したことで、かなりの程度、感情的な呑み込まれの不安から身を守れるが、逆に石化した人工世界には喜びを見出せないのである。
よって、はなから感情を持たぬ自然の世界に独り入り込むことこそスキゾイドの希望となっているような気がする。
人工的な世界を石化して、全人類を存在から消滅させること。
そしてただ独り自然そのものに同化して溶けていくこと。それがスキゾイドの欲求なのだろうか。
侵略される恐れを棄てて、一体化する。
関係への欲求は自然的生命への一体化への欲求であるのか?それでありながら、侵略的感情に壁を建設し続けるとしたら、
我々は人の中に自然という生命そのものを見ているのだろうか。
それとも内的な夢ばかりを見ているに過ぎないのだろうか、、。
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