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記憶を創るということ

夢の内容を起きてしまってから思い出すのは難しいというが、実は、「現実」の私の行動を思い出すのも難しい。

ほとんどが記憶を思い出す時、一瞬の限定的な写真記憶が呼び起こされるのみであって、具体的な行動や一挙手一投足は記憶されていない。無意識の目線の変化や、身体の動きは記憶しきれていない。

例えば、今日は〇〇に会ったという印象は思い浮かぶが、その時の目線、重心、身体の位置は全く想起されない。まるで、そんなもの無かったかのようだ。あまりにも基本情報すぎて刺激として認識されていない。

もし、今日ご飯を食べたなら、何口で何を食べたか。何回コップを持ち上げたか果たして想起出来るだろうか。これは、かなり困難である。しかし、かろうじて何を食べたかということは憶えているのだ。それは、人間の意味だ。そこには、自らの認識が伴っている。自分自身が意味を与えた情報こそ脳は意識上に記憶する。人間の記憶とは何を憶え、何を無意識に消しさるのか?非常に面白いシステムである。

例えば、今日はハンバーグだった。としよう。しかし、あまりにも自然にそこにあった白米や味噌汁というのは想起する一次的な段階には含まれない。あまりにも自然にあったはずの私の手や身体そのものは全く持って欠落してしまうのだ。ハンバーグを食べた時の姿勢は?と言われても答える事が出来ないのだ。

しかし、では人は記憶をしていないから自転車に乗れなくなるかというとそうではない。自転車に一度乗れさえすれば、ほとんどこの感覚を失うことはない。確実に憶えているのだ。それは莫大な情報量なはずだ、平衡感覚や加速度、筋肉、重心。とんでもない情報量を複雑に処理しながら、かつその状態を憶えてしまう。驚異的だ。

しかし、意識上には全く憶えていないのだ。もちろん、風を受ける感覚や、窮屈な姿勢、恐怖感などは覚えているかもしれない、しかし、それだけだ。指の位置は?目線は?再現出来ない。

再現出来ないのは刺激が無いからだ。

例えば、ベットで横になっている時、身体のほとんどに刺激はない。動こうとしなければ、目をつぶった時にもはや身体が無かったかもしれないと思ってもおかしく無いほどだ。しかし、そこに刺激を与えるとどうだろう。手を握り込んで力んでみる。すると不思議なことにそれは情報として脳に確かに認識される。そこに名前も付けてみよう、右手握り込みだ。意味付けだ。これにより私は、先ほど右手握り込みをこれくらいの感覚で行ったという確かな記憶を作る事が出来たのだ。もちろん右手以外の情報は失いながら。いかに我々が、「刺激」と「意味付け」に記憶を支配されているか、あるいは「意識上」の認識を支配されているかということが分かってしまうのだ。

もちろん、詐欺師や手品師はこういった刺激と意味付けを巧妙に隠して利用している。

まるで、正しいですよね?と質問されても、
正しいという刺激と意味付けばかりされているから記憶の上では間違いという意味を欠落してしまう。

広告なんかもそうだ、この商品はこのように素晴らしいと視覚的、聴覚的に刺激し、意味付けを行う。それは我々に空想を創らせ、ロマンの快楽に浸からせる。我々は一度広告を見たばかりに、それがなんなのか脳の中に記憶されてしまう。

無意識では、おかしいと感じつつも意識上の記憶には現れないのだから簡単に信じてしまうのだ。


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