泣き声は近所迷惑?山村暮鳥の詩を読んでみよう(こどもと詩⑨)
詩のソムリエが子育てのなかで考えた、詩のはなしをちょこっと。親になるとかならず直面する、「泣き声」問題。今日は、「うちの子の泣き声、迷惑なんじゃ」という悩みがすっと楽になる詩を紹介します。
赤ちゃんの泣き声問題
子を抱っこして玄関を出たら、お隣さんが庭の手入れをしていたので挨拶をした。「わぁ、まるまるとなりんしゃったねぇ」。70代くらいのお隣さんは手を止めて立ち上がる。「ときどき、泣き声が聞こえてきますよ」とわたしに笑顔を向けた。
それは、えーと、「うるさい」ってことなのかしら。でも、ニコニコされているし…。どう受け取っていいのかわからず、笑みを浮かべなら「はぁ、すみません」と頭をさげた。
もっと年をお召しになっているご近所さんには、「ぜんぜん泣き声がしよらんねーって思いよるとよ」とも声をかけられる。わが子は近頃かなりの声量で泣くので、(お耳が遠くなってきたのかなぁ)と思いつつ「泣いてますよ、うるさくてすみません」などと返している。
お年寄りが多いわが町内、赤ちゃんはうちの子だけ。それもあってか、赤ちゃんの泣き声は好意的にーむしろ、聞こえなければ心配よ、という感じで見守ってもらえている。ありがたい。
だがしかし、こんなふうに泣き声に寛容でいてもらえるのは、現代社会において、(残念なことに)たいへん稀有なこと、かもしれない。うちは高齢化が進む過疎地だからこんなふうだけど、集合住宅にお住まいのファミリーの心痛やいかに。子どもが生まれる前に、上下左右のお宅に「うるさくなります、すみません」という趣旨の手紙とプチギフトを配った…とか、子が泣くたびにうるさくないかハラハラ…なんて話はしょっちゅう耳にする。
子どもの声が「騒音」「迷惑」になってしまう日本社会。
まぁ、赤ちゃんの泣き声は2000ヘルツ以上(警戒音)くらい出るそうだし、仕方ないのか…?と言っても、赤ちゃんは泣くのが仕事だし。悶々。
それは、おとぎの国から聞こえてくる声
そんなある日、明治ー大正期に活躍した山村暮鳥(1884 -1924)の詩集『雲』をめくっていて、こんな詩に出会った。
この詩を読んで、ふ〜っと肩の力が抜けた。
「おや、こどもの聲がする」というはじまりから終わりまで、詩ぜんたいにのどかなトーンが漂う。遠いおとぎの国から聞こえてくるようだ、と泣き声をとらえる詩人の耳がやさしい。「いい聲だよ、ほんとに」という普段遣いのことばには、しみじみとした実感がこもっている。春のほわほわとした散歩のような、いい気分になる詩だ。
『雲』は山村暮鳥の晩年(といっても40歳)、結核で亡くなったあとに刊行された詩集。理想に燃え、激しく生きた暮鳥の詩は、『雲』のころには素朴で雄大、のどかな作風に変わっていった。
死期を悟っていた暮鳥にとって、こどもの泣き声は、しみじみと「いい聲」に聞こえていただろうか。結核で咳のでる体には、めいいっぱい泣く声はうらやましいほど潔かったのかもしれない。死の国に向かう暮鳥にとっては、「どこかとほいとほい/お伽噺の國」とは、現世のことだったんだろうか。
・・・
7ヶ月になるわが息子。新生児のころの「ふらぁ、ふらぁ」という儚げな泣き声に比べると、ずいぶん声が大きくなり、ギャァァァ!と激しく主張するようになってきた。生きる力がついてきている証拠だ。
親ばか道のまんなかを突き進んでいるわたしでさえ辟易するときもあるのだから、うるさく思う人もいるだろう。でも、暮鳥のように、しみじみと、「いい聲だなぁ」と聞いている人も、いるかもしれない。そういう人たちの声は詩のようにささやかで発せられない。
全身全霊でのけぞって泣く息子。夜泣きが激しすぎてこっちも寝不足でふらふら。生きる意欲に燃えたぎっている彼を抱っこしながら、「いい聲だよ、ほんとに」とつぶやいてみる。
これまでの「こどもと詩」シリーズ
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