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趣味に貴賤はあるか?(エッセイ)

答えはもちろん、「無い」
他人の趣味についてとやかく言うのは、野暮であり、余計なお世話です。

けれど、趣味を尋ねられた人が、
「毎週日曜の夕方に、テレビで『サザエさん』を見ることです」
と答えたら、たぶん、
「それはそれは、── 結構なご趣味ですね」
と言われる確率は低いでしょう。
(もし言われたら、警戒した方がいいかもしれない)

おそらく、多くの人が、《趣味》を測る、何らかの《指標》を持っているのです。

私も、ある時期「サザエさん」を毎週見ていましたが、時折、ダハハ、と笑ったり、
「そこは波平の叱り方に問題ありだろ!」
と登場人物に難癖つけて、周囲に嫌がられる以外は、ただ番組を視聴していた。つまり、この情報サービスを、ほぼそのまま受け入れていた ── 消費していたのです。

私たちが暗黙のうちに《趣味》を測定しているのは、おそらく、
《受動》的⇔《能動》的
という《指標》、もう少しその中身に踏み込むならば、
《鑑賞》的⇔《創造》的
という《指標》によって、と言い換えた方がいいかもしれません。

例えば、美術館で絵画《鑑賞》するより、自分で道具をそろえて絵を描く人の方が《創造》的です。同じ描くのでも、模写より自分で対象や構図を考える方が、より《創造》的かもしれません。
「自分で下手くそな絵を描くより、一流の絵画を見る方が、はるかに高尚な《趣味》じゃないか!」
という主張に、ケチを付けるつもりは毛頭ありません。

自室でAKBを聴くよりも、ライブに参加してペンライトを振り回す方が《創造》的だし、それより自らギターを弾いて歌う方が《創造》的でしょう。そして、自分で曲も作るならば、もっと《創造》的だと言えます。

野球で言えば、缶ビールを手にテレビ中継を見てるだけより、球場でメガホンを持って応援する方が《創造》的、そして、日曜日に草野球に参加して思い切り空振りするのは、もっと《創造》的です。川にボールを打ち込んだらアウトにするなど、草野球環境に応じたルールを仲間うちで作ったり、野球をアレンジした新たなゲームを考えるのは、さらに《創造》的かもしれません。

料理番組を見ているより、レストランで食べてみる方が《創造》的だし、自ら包丁を握って料理するのはさらに《創造》的です。同じ料理を作るのでも、レシピ通りに作るよりも、新しいレシピを考えるのは、より一層《創造》的です。

おそらく、私たちの内側には、無意識のうちにこうした「鑑賞的⇔創造的」尺度があり、《趣味》を測っているのでしょう。
(もちろん、表題にあるような《貴賤》で測っているわけではありません)

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ただし、《創造的趣味》には、ひとつ、必然的に行き着く問題があります。
── 高じてくるとその先に、《創造》《成果》を披露する《場》が欲しくなるのです。

絵画なら自宅の壁だけでは収まらず、一般の人が出入りする場所を借りて展示したくなるし、音楽なら発表会やライブで演奏したくなる。小説ならば仲間と同人誌を作ったり、文学賞に応募して広く世間に読んで欲しくなる。

そうした《発表の場》を得るには、舞台設定のための費用が必要になります。
そうでなければ、何らかの賞を射止めることを狙い、応募し続けることになる。
(吹奏楽や合唱のように、ひとりでは難しい趣味もありますが、《グループ性》の問題についてはここでは話題にしません。ただ、本質は同じでしょう)

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以上は、インターネットが登場する以前に、私が書いたエッセイです。

しかし、状況は大きく変わりました。ネット環境とSNSが、万人に《発表》の機会を、低コストで、かなり平等に与えてくれるようになりました。

NHKで放映された「6畳間のピアノマン」のように、普通のサラリーマンが、家ではビリー・ジョエルの弾き語りをするユーチューバー、なんていうのはざらにあるし、小説の投稿・掲載サイトもいくつもあります。

《創造的趣味》の持ち主には幸福な時代になりました。

── けれども、人はその先に行きたくなる。
《発表》したら、《成果》《評価》されたい ── ほめられたくなります

ネット利用なら、《PV数》が欲しくなり、「いいね!」が欲しくなります。
PV数と広告収入との連動もあり、システムはそうした期待に沿って設計されています。


ネットに移る前から、《評価》の問題は存在していました。

高校時代、私は下手なロックバンドの一員でしたが、学園祭の演目で、《客受け》するビートルズやローリングストーンズをるべきか、《オリジナル》曲で勝負すべきか、バンド内で激論を交わしたことがあります。
発表の《場》を意識すると、《客層》からの《評価》を気にせざるを得ません。
というより、ネットが普及する前の時代は、アマチュアに限っては、この程度の《気に仕方》にとどまっていました。

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人間というのは、なかなか《適温》ではとどまらない/とどまれない。
《数値化》されると、その《数値》を上げたくなる。
本来の《創造的尺度》からは仮に逆行していたとしても、《数値》の方に《幸福》の軸足が移っていくこともあります。《金銭的幸福》と連動していればもちろんですが、《収益》と連動していなくても、《ほめられたい》欲求は人を動かします

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《幸福とは、自己満足にある》
これは真理だ、と信じていますが、さらに、
《自己満足すらも、他者からの評価によって揺らぐ》
のもまた、社会的動物の宿命です。

ただ、
《時に原点に戻る》
のは重要かな、と思う、今日この頃です。

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