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《集団の成人式》より《個体の成人》 (エッセイ)

noteには、《エッセイ》と《短めの創作》を上げています。
ダッシュボードでPV数をながめれば、創作(ショートショート)はエッセイに比べて低めの傾向にあります。
その中では、読んでいただいた(開いていただいた?)数が2番目に多かった創作が、先週投稿した(↓)「肩の上に」でした。
《成人の日》をお題にした小品です。

この記事へのコメントに、あるnoterさまから、
「(私は)徹夜で麻雀をして(成人式には)行かなかった」
という、当日の想い出を寄せていただきました。
私自身の「成人の日」は、というと ── 19歳の恋人と川越氷川神社に参拝していました(エッセイ「三つめの願い」↓)。
その時彼女から聞いた《殺し文句》により、成人式には欠席しましたが、《成人の日》自体は、きわめて鮮明に憶えています

《言動》という言葉があります。
彼女の《言》で最も印象的だったのが、この日の《殺し文句》でした。
では、《動》の方はというと、《言》以上に鮮烈な想い出があります。ただ、「三つめ……」のようなきれいな話ではないので、こういう場所には書きにくい。── 脇道に逸れました。

《成人の日》前後の記憶として、おそらくその後の自分に影響しているのは、ある雑誌が募集していた原稿用紙2枚程度のショートショートに応募したことです。運良く採用され、原稿料1万円を手にしました── その1回きりでしたが。
小さなできごとでしたが、二十歳の私にとって、これは大きな《成功体験》となりました。
中学1年の時、授業で書かされた《創作民話》が活字になって以来(↓)の《書きもの・ホメられ事件》でした。

それぞれの《二十歳》にはそれぞれの《夢》があり、凸凹した《進捗》や《挫折》があり、《転向》もあるのでしょう。

《成人の日》の夜、あるいは翌日、TVやネットニュースで《新成人》についての《報道》 ── その多くは、➀成人式会場で同じ系統のコスチュームを身に纏った《主集団》としての取り扱いと、➁《例外》としてやはり会場でのトラブルや小競り合い、の組み合わせから成っている ── を目にすると思うのです。

このような、楽チンだけど意味の乏しい取材よりも(式自体を無意味と言っているのではありません)、いくつかサンプリングした《個体》としての《成人の日常》を取材した方がいいんじゃないでしょうか ── 《新成人》について報道したいならば。

「事件は会議室で……」じゃないけれど、
《成人は、成人式会場で成人になるんじゃない!》

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