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愛し方を間違えたとか思わなくていい、その時その時の愛の形を、アップデートしていけばいいだけ。【家族最後の日(植本一子著)】後編

愛って難しい…
難しいものだけど、正解も分からないけど、だからこそ、その時その時の自分なりの愛情の捉え方、愛し方をアップデートしていきたいと思う、ということを前半で書いたかと思います。

今回のnoteでは、
前回の内容とは異なり、「愛」ではなく「怒り」について書いていきたいと思います。

「誰かに対しての怒りを我慢したら、必ず自分よりも弱い人に吹き出します。
怒りは正しく「やった相手」に向かって返すべきだし、そうしている限りは健康でいられるんです。
誰に嘘をついてもいいんだけど、自分にだけはついちゃダメなんです。
簡単なことだけどそれができてる人は少ないし、そうして生きてる人は一緒にいて気持ちがいいんです。
逆ならなんとなく不愉快なはずです。
自分で自分の心が見えない。わからない。触れない。
そういう人を見たら、ああこの人はどんな嘘を自分についてるのかな?って思いますね。
何かから目をそらすために怒りが必要な人。
本当に怒るべき相手に怒れないから当たり散らす人なんです。」

家族最後の日(植本一子著)

上記は、植本さんがカウンセリングを受けた際、先生に言われた内容だそうです。

私はずっと「怒り」という感情を悪いものだと思っていました。
怒りを感じるのは、私が未熟な証拠。
ちゃんとした大人だったら、怒りになんて気をとられず、自分の中でうまくやり過ごせるものなんだと勝手に解釈していました。
(ちゃんとした大人って誰のことだよ)
怒りを外に表すのは恥ずかしいことで、
自分の内側に留めておくのも労力がいるので、
怒りを感じないようにするのが得策なのだと思っていました。
怒りは感じても無駄なもの、うまくやり過ごすのが一番いい方法だ、と。

でも、上記でカウンセラーの先生が仰っているように、そうやって自分に嘘をつき続けていると、
「自分で自分の心が見えない。わからない。触れない。」状態になってしまうんです。
心が「怒り」という方法で何かを強烈に訴えているのに、
それを無視し続けるというのは、
自分の存在を、心を自分から否定しているのと同じではないでしょうか。
(私は長年この状態だったと自覚しているのですが、自分がこの状態に陥っている時は自覚が無いので、自分を無視するという恐ろしい選択がごく自然なこととして行えていたんだと思います。長年寂しさや違和感をそのままにしてしまっていました、今だから言えることですが…)
自分の心を自分自身にさえ開示出来なかったら、自分の行き場が無くなってしまいます。

自分が何に怒りを感じているのか、それはなぜか、誰に対してなのか、いつからか。
丁寧に紐解いてみると、怒り、というのは感情というより、より自分の中で存在感を放つ重要な感情を示してくれるサインのような役割をしているような気がします。
(アドラーの心理学でも、怒りというのは何かの手段のためのものだとされていたと思います。例えば誰かを制圧したい、抑圧したい、そのために怒りというパフォーマンスを見せる…のようなイメージだと私は理解しています。)
本当は寂しかった、悔しかった、不安だった、色んな、切なくて、尊い、本当の本物の感情がそこには隠れていると思います。
その感情たちが、見逃さないで!掬い上げて!と訴えている時のサインとして、「怒り」が出てくるんじゃ無いのかな、と、私はこれまでの人生を通して思うのです。
だから、今まで私が思っていた、「怒り」は悪い物、恥ずべき物、という考えは手放して、
今は心の何かしらのサインなんだという認識をあたためていきたいと思う次第です。
「怒り」は自分の中から排除すべきものではなく、むしろ丁寧に向き合うべきものだと思うのです。

ただし同時に、それを人に伝える時に注意が必要だとも思うのです。
怒りは人にぶつける時、対人関係を本来の目的とは大きくかけ離れたゴールへと運ぶ気がしませんか?
(人から感情まかせに怒りをぶつけられたり、自分が子供の頃にぶつけたりした結果を思い出すと、大体はバッドエンドだった認識があります。)
そして、前述したように、人へぶつける怒りは時として相手を抑圧する手段になりかねません。
怒りは人へぶつける場合は工夫が必要だと思いますし、そもそも自分が自分の声と向き合うために発せられるサインです。(と私は思います)
上記のような注意は必要なものの、そもそも怒りを人に向かわせることなく自分の中で無かったことにして押し殺すことに専念していた私にとっては、
引用文の中に記載のある、
「怒りは正しく「やった相手」に向かって返すべきだし、そうしている限りは健康でいられるんです。」
のように、怒りを正しい相手に向かわせる勇気を持つことが必要なのです。
そして、その怒りを相手に説明する際、怒りまかせではなく、
なぜ自分が怒っているのか、だから今後どうしてほしい、
という、対人関係を前進させるチャンスに繋げていきたいのです。
(怒りを向かわせるというのは人を怒鳴りつけるとかぶん殴ってぼこぼこにするとか、そういう意味ではなく、これは自分の心の中できちんと認識するということです。)

かなり綺麗事かもしれないですが、私の理想は上記です。
今まで人とぶつかることを避けるために、自分の中に生じた怒り、すなわち自分の声をずっと無視してきた。
でも、これからはもっと自分の怒りに丁寧に向き合って、自分とちゃんと向き合いたい。
そのために、まずは怒りを正しい対象に向かわせる勇気を持ちたい。
向き合わずに胸を痛めながらやり過ごした怒りって、大人になっても消えない物です。
一生その時無視された感情が、心のどこかに残っていて、ふとした瞬間にコントロールが効かなくなるくらい自己主張をしてくるものです。
そんな自分の叫びを、私自身が向き合ってあげなくて、一体誰が向き合ってくれんのよ。
(誰よ)
子供の頃より、ちゃんと強くなれてる今、自分のやり方をアップデートしていくことこそが、大人を楽しむってことだと思う。
私はめいいっぱい、大人を謳歌したい。

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