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純文学と大衆文学との違いとは


まず最初に次の記事をお読みください。


https://k-hirano.com/articles/bungakunomori_202203


 私の誤読があるといけないので、上の記事を読んでいただきたいのですが、私なりに平野さんの主張を読み解いてみたいと思います。

 平野啓一郎さんは、純文学と大衆文学という区別には曖昧なところがあるとしつつも、必ずしも区別がないわけでもないことを述べた上で、純文学について、次のように定義しています。

僕の思う定義を敢えて言うと、読み終わったときに何かすごく大きな認識や価値観の変化があった、というのが純文学作品に求められるもの、コアにあるものだと思います。今までの自分の価値観に抵触するために、考え込んだり、抵抗を感じたり、その世界と自分との間に葛藤と緊張関係を持ちつつ、それを咀嚼しようとして、読むのに相当な時間がかかるものだと思います。

上の記事(↑)より引用

 ポイントは2つあるように思います。


読んだあとに認識や価値観に大きな変化をもたらすもの

咀嚼するのに相当な時間を要するもの


 平野さんのご意見は、私が思う純文学と重なるところが多いように思いました。
 ここからは私の思う純文学と大衆文学の違いを自分の言葉でまとめてみます。私も必ずしも純文学と大衆文学との境界線はハッキリとせず、曖昧なものだと考えていますが、次のようなイメージを持っています。


#私の思う純文学



字面の意味は理解できても、単純な要約を拒むものを含むもの。

読むたびに、印象が深く刻まれていく何かを持つもの。

読者の心になんらかのトラウマを植えつけるもの。


#私の思う大衆文学



内容把握が容易であること。

感想が「面白かった」の一言で済むもの。

同じようなものを見たことがあるはずなのに、はじめて見たかのような印象のもの。
(一言で言えばジャメブがある)


#一応の区別をしてみましたが


 純文学と大衆文学との特徴をそれぞれ3つずつ挙げてみました。
 けれども、明確に「ここが違う!」というものではなく、あくまでも相対的なものに過ぎません。

 上に挙げた基準のほかにも、
エンタメ性(娯楽性)が強ければ「大衆文学寄り」で、弱ければ「純文学寄り」
みたいなことも思ったりしますが、必ずしも私の気持ちと合致するわけでもありません。

 平野さんも少し触れていましたが、ドストエフスキー罪と罰」は、私は純文学だと考えています。
 「罪と罰」を読んだとき、「次はどのなるの?」とワクワクしましたし、再読したときもドキドキしました。けれども、「罪と罰」を大衆文学だとは微塵も思いませんでした。

 訳者の中野好夫さんは、「人間の絆」を書いたサマセット・モームを通俗作家だと述べていますが、「人間の絆」も私は純文学だと考えています。

 かつて東野圭吾さんの作品をたくさん読みましたが、私は基本的には東野圭吾さんは「大衆小説作家」だと考えています。
 けれども、「秘密」や「容疑者Xの献身」は大衆文学だと思いますが、「幻夜」や「白夜」は、純文学のようにも思えます。


結び


 純文学と大衆文学との区別は、きわめて曖昧だと思いますし、優れた文学であるほど、どちらの領域にも属している部分があるように思います。

 けれども、純文学と大衆文学という区別がまったく意味がないものであるとは思っていませんし、個別の作品について問われるとしたら、感覚的には「これは純文学、あれは大衆文学」という区別はできるような気がしています。

 あなたはどのような意見をお持ちですか?


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