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読書妄想文 | (『椿井文書』を読んで思ったこと)

 noteで、馬部隆弘(著)『椿井文書』(つばいもんじょ、中公新書)の記事を読んだ。実際に図書館で借りてざっと読んでみた。
 著者の主張は「『椿井文書』は偽文書である」という立場で貫かれている。具体例を豊富に挙げて考察している。おそらく『椿井文書』は偽文書なのだろう。

 私が「この本は面白い!」と思ったのは、『椿井文書』が本当に偽文書か否かということではなく、「どのようにして人は歴史を信じたり、信じなかったりするのだろうか」ということにある。

『椿井文書』は、偽文書であるにもかかわらず、今でも「◯◯市史」「◯◯町史」という郷土史に引用されることが多いという。なぜか?
 歴史研究者( あるいは歴史研究者も含めて、かも ) はともかく、一般の人は、書かれた歴史書を、そもそも疑いの目をもって読むことは少ない。また、絵が豊富にあるとインパクトが強く、ミスリードされやすい。文字通り「絵になる」ということも、「◯◯市史」を編むにはもってこいなのだろう。

 歴史ということを離れて考えてみても、日々私たちが見ているネットにしろテレビにしろ、ひとつ1つ、いちいち「ファクトチェック」している訳ではない。しかも、大切なニュースであるとしても「絵」がなければ、報道されることがなくなるということもある。イメージの力は大きい。

 また、正確に話を伝えるということも、難しいのではないだろうか?
 意図的に嘘を言うつもりはなくても、嘘になることもあるだろう。
 同じ事件を経験したAさんとBさんであっても、見え方や捉え方次第で、両者がまったく異なることを主張しているかのように聞こえてしまう。そういうことは、常にあり得ることだ。

 フランシス・ベーコンは、人間の陥る偏見として、「種族のイドラ」「洞窟のイドラ」「市場のイドラ」「劇場のイドラ」の4つのイドラを挙げた。

 人間という種族であることに起因する偏見(『種族のイドラ』)。
 個人の置かれた状況による偏見(『洞窟のイドラ』)。
 人のうわさ話による偏見(『市場のイドラ』)。
 権威を無批判に信じることによる偏見(『劇場のイドラ』)。

 歴史研究するとき、あるいは、歴史観を形成するときも、この4つのイドラから逃れることは難しい。

 今回、中公新書『椿井文書』を読んだ直後は、無批判に「椿井文書は偽文書である」と思ったのだが、『椿井文書』を擁護する研究者もいる。公平を期すためには、両者の主張を一応聞くべきなのではないか、とちょっと思った。一冊の本を読んだだけで、即断することは危険だ。

 歴史とは、単純な真実を積み重ねていくだけではない。
 歴史とは、何が真実かということがわからないまま、暗闇の中で「あーでもない、こーでもない」と言いながら、史料と自分の理性及び心で対話を積み重ねていくことなのではないだろうか。終りや決着というものもないかもしれない。


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