キリストと確率の話
こんにちは。
葬送のオーケストラ「墓の魚 PEZ DE TUMBA」
の作曲家です♪
今日は、メモみたいな感じで、
死後の世界とか、
この世界の確率だの、
神学だのについて
日頃、考えてる事を
適当に綴っていきます。
まぁ、こういう私の思考が
「墓の魚」オーケストラの作品の
基盤になっていますし、
これは、私にとっての
キリスト教の話なのかもしれない。
例えば、まずは、
[死]の解釈について・・
そもそも
世は上手く出来ているもので、
生き埋めにされる苦しみ、
病に冒される苦しみの終焉に
[死]という[救い]が
必ず存在している訳です。
キリストは自ら十字架に架けられ、
この世で精神の為に
様々なもの(生きる執着や肉体すらも)を
捨てる事の大切さを説いた。
[捨てる]とは、
すなわち[縛られない事]であり、
[解放]なのでしょうね。
我々は結局の所、
自分の心の窓からしか
世界を見れていないので、
その心の方を何とかすれば、
肉体の方は現象に過ぎない
(絶望が付与しない)
というのは正しい気がします。
仏教のある宗派は、
我々の体は様々な物質の
[偶然の寄り集まり]
であり、
それらは[縁]によって
結ばれているだけで、
いずれは分解し、
別の[縁](この世界の構成)に繋がっていく
と考えるのですよね。
まぁ、私は仏教は
専門ではないのですが、
とても面白い考えだと思います。
人間は、
感情や人格にこだわり過ぎるから
[死]というものを理解できていない。
例えば、
精神(知識)の無い
微生物や海藻だって死ぬ訳です。
死はある。
そう考えると
[死後の世界の精神]
というのは、ちょっとおかしい。
人間目線過ぎるのです。
我々の肉体の素材は別のものに変換され、
別の生物達の素材として
繰り返しこの世界で
存在し続ける
と考えた方が自然な気がします。
所詮は肉体など
蛋白質というポリマーと、
それを構成するアミノ酸であり、
それも分解したり、食べられた所で
変質はしても、消滅はしないのですから
(気化は消滅ではない)
質量保存の法則ですね。
さて、
それが永遠に近い時間繰り返される場合・・
我々はその[無限に限りなく近い]
時間の長さの意味を
考える必要があるのです。
その膨大な
長い長い永い世界では、
[確率]など最早関係なく
[起こりうる事は(全て)起こる]。
その意味を考える必要がある訳です。
[無限]に終わりは無いので、
[無限]とは、
頭の無い閉じた輪の様な世界
である事がわかります。
そこでは、
あらゆる全ての可能性が
何しろ永遠に繰り返されるので、
時間すら無意味で、
結果、
[確率すら無意味]
と言えてしまう。
[無限]の前では、
数も、時間も、確率も、関係なく、
等しく一列に並べられる。
という事です。
例えば
[今ここに私達がいて、
あなたがコーラを飲んでいる]
という瞬間は、
人類の歴史の中で
二度と再現されない奇跡の瞬間に思えますが、
無限という制限のない世界では、
宇宙の材料で再現可能な全ての瞬間は、
何度でも繰り返される事になるのです
(時間が無意味なので)。
そういう意味で
我々の言う
[楽園]
[永遠の旅路]
というものは、
存在する可能性があるのですね。
死して材料となった私達が
無限の中で様々なものに溶け合い、構成され、
何度も同じ事を繰り返し、
再び出会う可能性・・
という意味では。
「でも、全く同じ人間は
2度と生まれないでしょう?」
と思うのが普通ですが、
いや、全く同じ人間になる
気の狂う位の僅かな確率すら
問題なく内包してしまうのが
無限という時間なのではないでしょうか?
それは一方通行の遷移ですらなく、
それよりも壮大な循環であり、
我々の脳が想像できない様な規模の
数学の話なんです。
無限の前では、
数も時間も確率も関係なく、
等しく一列に並べられる。
数学というものも、
突き詰めていくと
非科学的に見える位の領域に辿り着き、
宗教的になって来るんですよね。
ただ、最も重要な話、
そもそも
[無限というものが存在するのか?]
という問題があるのですけどね(汗)
いずれにせよ
[宇宙というものの壮大さ]を
未だに我々は
侮っている可能性があるという事です。
死んでカタツムリに喰われたり、
土になったりした我々の原子が
再びいつか偶然に集結する?
(それを期待する意味も
あまりないですが)
[確率的にありえない]と考えるのが当然。
ただ、今の我々の[この一瞬]ですら、
実はありえない
数学的確率により再現された
[どうでもいい日常]
なんですよ。
[奇跡が起こる]のではなく、
この世界のあらゆるものが
永遠の時間の結果であり、
[奇跡の産物]でしかないのです。
誰も計算していない
野放図に放たれた
結果から見た世界ですけど(笑)
無限に限りなく近い(と感じる程の壮大な)
現実の数字だけ宇宙が続くなら、
バラバラに散った我々の肉片(原子)が
また偶然、今の我々になって
再び友と再会する事もあるかもしれない
(別の惑星で??)
だけどそれは、
我々の精神では考えられない位、
あまりに巨大な数字の話なので
今の私達が考え得る科学ではないし、
思考した所で掌握は出来ない。
数学とか確率の話というのは、
神の世界を垣間見る
ファンタジーだという事ですね。
そもそも
[確率]って不思議ですよね。
コインを投げて裏か表になるか?
は五分五分。
でも100回連続で表になる確率は低い。
でも、仮に100回連続で表が出て、
101回目に投げて、表が出る確率って、
そこだけ切り取って見れば
やっぱり五分五分なんですよ。
100回も表が出たから
「101回目には絶対裏だよ!!さすがに!!」
という事にはならない。
いや、当たり前の話なのですが、
要するに
100回連続して表が出る事に
[何かの意味]を感じてしまうのは、
所詮、人間の精神であって、
この世界的には、
常に淡々と五分五分の確率の[動]を
無感情に繰り返しているだけに過ぎない
という話です。
[連続した歴史の果ての今]
を見るのは感情。
定理は今、この瞬間だけを
数学的に動かしているに過ぎない・・。
さてさて、
今日も私が日々思っている事の
一つを語ってみました♪
そんな私が作品を制作していく
オーケストラ
墓場(LA TUMBA)と、博物誌の
「墓の魚」を
これからも
よろしくお願いいたします~。
【1000視聴突破ありがとうございます♪】
「墓の魚」のラテン詩と、
メメントモリ曲の融合した
配信動画
「死んだ珪藻とマキシロポーダのミサ」
こちらで公開中です↓↓↓
◇◇◇楽団公式サイト◇◇◇
◇◇◇「墓の魚」の音楽動画(ちゃんねる登録してね)◇◇
◇◇◇Twitter◇◇◇
自作の詩による詩集「沼地の聖書」(ハードカバーによる分厚い豪華本を予定)を出版する為のサポートを募集しております。ぜひ、よろしくお願いします!!いただいたサポートは詩集の費用にさせていただきます。