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能動的であることより主体的であることの方が重要なのです。

私の行動原理は「欲は無いが、ネガティブな影響を嫌がる」である。

この行動原理について私が持っている印象は、すごく受動的な生き方だな、ということだった。

自分にとってやりたいことがあるわけではなく、周りから与えられる環境に対する反応としてネガティブな要素を避けるということは、「能動的でもないくせにわがままを言っているような生き方」な気がする。

しかし、この行動原理は「原理」なのであって、簡単に変えられるものではないとも思う。だから、発動しないように工夫を重ねたり、発動してしまってもその影響をなるべく小さくすることはできるが、ある程度は受け入れるしかないのである。

そういう受動的な態度について、自分の中ではあまり良い気がしていなかった。なぜなら、本当は何事についても主体的に対し、取り組んだ方が楽しく取り組むことができるし、得るものも大きい、と思っているからだ。

その理解は、自分の経験と、いろいろなところで学んだ外的な知識に支えられている。しかし、そうはいってもなかなか主体的になれない瞬間もあるわけで、そういう自分がなんだか居心地が悪い。

ただ、気をつけなければならないのは、「能動的」と「主体的」は厳密には意味が違いそうだ、ということだ。

「受動的」の対義語としての「能動的」は、自分のある種の欲望があって、そこに向かって進んでいくイメージを想起させる。

一方で、「客体」の対義語としての「主体(的)」は、自らの意志によって判断し行動するイメージを想起させる。

両者の違いは、行動を伴うかどうかにあるのではないだろうか。

例えば、能動的にある役割を引き受けようとしたわけではなく、周りの誰かに役割を与えられた(受動的)だったとしても、それに本当に取り組むのかどうか、取り組むとしてもどのように取り組むのか、については判断と選択の余地がある。

ここで、「取り組まない」として行動しない判断をした場合、その人間は、能動的ではないが主体的である。自らの行動を、自らの判断によって選択する、という主体性を発揮している状態だ。

仮に自分の欲望が少なかったとしても、自分自身が一体何をすべきなのか、どのように生きていくのかを、自ら判断し選択している限りは、主体性が失われることはない。

そういう主体性を大事にしたとき、初めて自分の人生を生きることができ、人生が楽しく豊かなものになっていくのではないだろうか。

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