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社会正義に対する沈黙は共犯なのです。

社会正義(Social Justice:ソーシャルジャスティス)という言葉がある。

#MeToo運動や #BlackLivesMatter運動に代表されるような、人種やジェンダーによる差別やそれ以外の社会における諸問題も含めて、真に公正な世界を実現していこうとする立場を表す言葉である。

上記の書籍の中には、"Silence is Complicity(沈黙は共犯)"という言葉が出てくる。影響力のある人間がこうした社会問題に対して何の発言もせずに沈黙を守ることは、差別を助長する人々の共犯と見なされる、と言っているのである。

私にはまだこれっぽっちも社会的な影響力はないわけだが、もし仮に影響力を持つ立場に置かれたとしたら、こうした社会正義の観点から、自分の立場を表明することが必要になるだろう。

もし自分がそういう差別を受ける側だったり、人間的尊厳を蔑ろにされるような何かをされたときにはもちろんのこと、誰かがそういう立場におかれていたときに、それに対してもきちんと声を上げる、という姿勢が大事だ。

というのも、私は自分の意見を広く主張することに苦手意識があって、これを本当に意識的にやっていかないと、社会正義を果たすことはできないと思う。

改めてなぜこんなことを考えたのかというと、もし自分が声を上げずに(共犯者になって)いたとしたら、どこかで同じ苦しみを抱えている人や、自分たちより後の世代の人たちにまで同じ苦しみを味わわせることになってしまうのではないか、ということに気づいたからである。

私は世の中的な影響力は全くないが、私が所属している集団という狭いコミュニティの中では、一定の影響力を持つ立場にいることが多かったのではないか、と振り返って思う。

そういう中で、もしそのコミュニティの中で何か受け入れがたいことが行われていたとしたら、自分なら我慢して乗り越えられたり受け流したりできる苦しみであっても、他の人にとってはそうではないことがあるかもしれない。

そのとき、影響力の無い人間の発する言葉や意思は、往々にして無視されたり無かったことにされてしまうことがあるからこそ、影響力のある人間がそれに対して適切に声を上げなければならなかったのだと思う。

このような、影響力とそれに伴う責任を自覚し、適切に果たすことができる人間であることが求められるように思う。

今の日本社会において、そういう人間がどれだけいるかというと、諸外国に比較するとまだまだ少ないだろう。

そもそも、日本では権力に対して批判的にものを言うことが憚られると共に封殺されがちであり、そういう社会正義の立場を表明する人々を一般大衆が支持する文化的土壌も少ない。

良き伝統や知恵は適切に守り、悪しき習慣や誤りはその存在を適切に認めて断ち切り、繰り返さないように前に進んでいくことができる姿勢が、我々にも求められているだろう。

私は自分の意見を広く表明することに苦手意識があるが、どういう社会を子どもたちに手渡したいか?という観点で、他の同じ境遇におかれた人とか未来の子どもたちのためであると思ったら、少し頑張れるような気もする。

日本の子どもたちへ。

この日本社会には大きいものも小さいものも含めて、たくさんの課題がある。こんな社会で申し訳ない。こうなっているのは、僕たち大人の責任だ。

だけど、その課題や、悪や闇によって誰かが苦しむことが繰り返されないように、できる限りこの時代で断ち切りたいと思っている。

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