現場のディレクションが好きなのです。
先日、自分としては久しぶりに、集団での飲み会の幹事をやった。
大学3年生のときには、サークルの副会長として50人規模の学生集団を居酒屋に連れて行くことがよくあった。会長はサークルの顔役としてそこにいる一方で、副会長はこういう実務を担当することが多かったのである。
私はそういう役回りを、半分志願してやっていた。リーダーとして顔役になるのはあまり好きではないが、その陰に隠れて実務をしっかりこなしながら、全体の運営を助けるようなポジションが好きだったのである。
今回の集団での飲み会は、約30名程度の大人たちを連れて立食形式のパーティとした。
私はその飲み会やイベントの段取りを組んでそれを適切に実行することに喜びを感じる人間だから、前日のうちに店員さんと電話で綿密な打ち合わせをした。当日の食事だけでなく、机やイスの位置、ドリンクバーや荷物置きの位置について共有した上で、会計についても現金とPaypayの2つの選択肢を用意して柔軟に対応できるようにした。
結果として、飲み会自体は好評のうちに終了した。飲み会のコンテンツ自体は初対面の人々が入れ替わり立ち代わり立食形式で談笑することだったから、そこは私の関知するところではないが、私が準備した会場と全体のスムーズな進行にストレスを感じさせない点については、一定の貢献ができたと考えている。
久しぶりに幹事をやって、幹事力がなまっているなぁと感じたところもあり、反省点も複数あるが、ひとまずは合格点であると自分では思っている。
なぜかわからないが、私はこうした段取りを決めてその日の現場をディレクションするのが好きで、どうやら無意識にできるようなのである。
逆に、自分が一般参加者として段取りがうまくいっていないイベントなどの会場にいると、普段あまりイライラしない私であっても、イライラすることがある。
その中でもよくあるパターンが、運営リーダー的立ち位置にいる人間が、具体的な運営作業のプレイヤーになってしまっているパターンだ。
どうしてもっと運営リーダーが積極的に声を出して人を使わないのか?
「人を使う」という表現だとちょっと刺激が強いかもしれないが、もう少し丁寧に言えば、「人に役割を与える」ということだ。
現場の運営リーダーの仕事は、その現場や人間集団をスムーズに(なるべくストレスを少なく)動かすことであって、そのためにはリーダーが視野を広く持ち、現状の把握と共に、時間的制約を睨みながら、理想状態とのギャップを埋めていく必要がある。
それをうまく実現するには、自分自身がある特定の作業に埋没してはならない。作業に埋没してしまうと、途端に全体像が見えなくなってしまうからだ。
こうして流れるように、私としては「自分にとっての普通」を書いているのだが、これができることはどうやら普通のことではないらしい。自分が具体的な仕事をしなければならない、と思ってしまう人は多いみたいだ。
また、少し視点を変えれば、その場所にいる人たちに適切に仕事を与えることも大事な役割の1つなのだ。人間には「自由でありたい」という欲求と共に、「積極的に何らかの集団に帰属して貢献したい」という欲求を同時に持っている生物である。そういう観点からしても、その人の性質や能力に合った役割を生み出したり、与えたりする人間は必要だ、と私は思っている。
まとめると、「その現場を理想状態に近づけるために、時間的制約を睨みながら、現場にいる人に適切な役割を生み出して与え、人手が余っているところから人手不足なところに人員を回し、全体がうまくスムーズに進んでいくように全体を俯瞰してみる存在」でいるのが好きなのだと思う。
飲み会幹事の話から少々話のスケールが広がってしまったが、自分が好きなことをやって色々と考えたことを書いてしまった。
※追記(6/16)
本記事の内容は、特定のイベント主催者を批判するものではありません。
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