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日本に初めて株式会社を作った新1万円札の顔になる『渋沢栄一』とは

「名を成すは常に窮苦の日に在り、事に敗れることの多くは得意のときにある」

今回は、つらく苦しい時期は飛躍の始まりであり、逆に絶好調の時期は下り坂の始まりという上記の言葉を残した渋沢栄一の生涯を紹介していきます。

2021年の2月14日から始まるNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公でもあります。

明日友人、家族に使えるネタも入っていますので職場での博識マウント取りにご利用ください。

生い立ち

渋沢栄一は、埼玉県深谷市出身で渋沢家は藍染の製造販売に米や野菜の生産も行う農家でした。
14歳の頃には藍染原料の仕入れに出かけるようになり、大人顔負けの目利きをするなど優秀な子供でした。

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成人した渋沢栄一は北辰一刀流の道場に入門し、そこで出会った勤皇志士と交友し、尊王攘夷の思想を持ち始めます。
※北辰一刀流はのちに坂本龍馬も入門し免許皆伝となる流派です。

※尊王攘夷とは
天皇を尊び、外来者を打ち払って日本を欧米列強から防衛すべしと言う思想です。幕府を倒そうという運動にも繋がっていきます。

倒幕派から一転、幕府の家臣になる

尊王攘夷の思想を持った渋沢栄一は城を乗っ取り、外国船が集まる横浜港を襲撃し火を放つ計画をしました。

しかし、計画が失敗してしまった際に一族まで罪人とされてしまうことを恐れた親戚に計画を止められ、やむなく中止しました。

その後、友人からへットハンティングされた渋沢栄一は一橋慶喜に仕えることになりました。

そこで農兵の募集等を行い手腕を発揮し過ごしました。

5年後、一橋慶喜は徳川慶喜になり将軍となりました。

渋沢栄一は当初、倒幕派だったのですが主君がいきなりその幕府のトップになってしまったので幕臣になりました。

今でいうと、就職先の社長が総理大臣になってしまったくらい凄いことです。

※幕末期に一橋家に仕官し京都に居た頃、新選組の近藤勇土方歳三と一緒に敵を捕まえたことがあるそうです。

パリ万博に行き外国の文化を知る

渋沢栄一はフランスのパリで行われた万博に日本の代表として参加しました。
各地で先進的な産業・諸制度を見聞すると共に、近代社会の在り様に感動と驚きを受けます。

ヨーロッパの国々を渡っているうちに日本国内では大政奉還が行われ、主君の徳川慶喜は失脚し静岡で謹慎の身となっていました。

帰国した渋沢栄一は徳川慶喜から「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を受け、しばらくは静岡藩に仕えましたが次の道を見つけ始めます。

日本初の株式会社と超有名銀行を作る

西欧の文化に触れて帰国した渋沢栄一は、資本主義を学び、日本で初めて株式会社を作りました。

のちの総理大臣であり、早稲田大学の創立者大隈 重信より明治政府に誘われて知識を活かして銀行を作り、紙幣(円)を制定しました。

渋沢栄一は『みずほ銀行』と『りそな銀行』の設立発起人なのです。

昔からある日本の有名企業の設立に関わっている

渋沢栄一は銀行を設立しただけではありません。
500を超える企業や経済団体の設立・経営に関わってきました。

・東京海上日動火災保険株式会社
・王子製紙、日本製紙(製紙業界世界8位)
・東急株式会社(鉄道、ホテル、百貨店)
・太平洋セメント株式会社(日本最大のセメントメーカー)
・キリンホールディングス
・サッポロビール
・清水建設(ゼネコン)
・東京証券取引所(日本最大の証券取引所)
・明治製菓株式会社

ちょっと多すぎて書きれないですね。諦めました。
他にも教育事業などにも力を入れています。

最後に


『富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。』

日本における資本主義の父と呼ばれた渋沢栄一は、商売は騙したりすることなく行わなければ稼ぎ続けられないと言います。

経済を発展させ利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することに勤めました。

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2024年には福沢諭吉から渋沢栄一に1万円紙幣の人物が代わります。
実は福沢諭吉の孫と渋沢栄一の孫が結婚してるので、親戚なんです。

明日、友人家族にこのエピソードを使ってみてはいかがでしょうか?

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