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子どもを「怖い」と思った瞬間

みなさんは「子ども」に対してどんなイメージを持っているだろう。

「可愛い」「無邪気」「愛らしい」といったポジティブなものから、
「うるさい」「目障り」「嫌い」と言ったネガティブなものまで様々あるかもしれない。

ちなみに僕は子どもにポジティブなイメージを持ってる。

彼らには僕らよりもはるかに多くの「可能性」が秘められており、それは社会で守るべきものだと本気で思ってる。

こんな具合に子どもへのイメージは人それぞれに様々な思いがあると思う。

それでも子どもを「怖い」と思う人は少ないはずだ。

ここでいう「怖い」っていうのは、
「何をしでかすか分からなくて怖い」とか「扱い方がよく分からなくて怖い」そういう話ではなくて、
子どもの存在そのものに「怖さ」を感じる、ということだ。

僕は仕事柄、多くの子どもを見てきた。
そんな中で1回だけ子どもに恐怖を覚えた経験がある。

今回はそのときの話をしたい。

これから4歳の男の子が登場する。

よかったらまずはこの微笑ましすぎる動画(「ピッカピカの一年生」)を見て、

4-5歳の子達のイメージを湧かせてから読んでもらえると、より分かりやすいかもしれない。

○初めは「健気な子」

ある年の冬、その子は入院してきた。

その子は、少し痩せ気味で短髪の4歳の男の子だった。

仮に名前を「健」くんとしたい。

健くんは、胃腸炎で嘔吐と下痢が酷く脱水状態になっていたため、点滴をする必要があり入院となった。

健くんの入院が決まり、点滴の針を刺すことになったとき、僕はまず説得から始めた。

「これから元気になるための注射をするよ。
ちょっとチクッとするだけだからじっとしてくれるかな?」

話が通じる子にはできるだけ治療の必要性を話してから処置をするのが鉄則だ。

相手が子どもだからという理由で説明もなしにいきなり針を刺すのは子どもに失礼だ。

もちろん結局納得してもらえず、大暴れされることが多いけれど。

しかし、そのとき健くんは
「僕早く治したいから我慢する。」

と即答した。
脱水になって元気もないはずなのに彼はそう言った。

その姿をみて、
健気で偉い子だなと感心した。

そして本人が宣言した通り、全く暴れることなく処置を終えることができた。

健くんは両親が共働きなため、親が付き添うことができず、まだ4歳ではあったが1人で入院することになった。

そうして健くんの1人入院生活が始まった。

○最初の違和感

最初に違和感を覚えたのは、翌朝の回診時だった。

回診とは、同じ科の医者達がいくつかのチームに分かれ、それぞれのチームが担当する患者達の病室を分担して回るものだ。通常は朝と夕方に行う。

(ちなみにドラマでよく見かける教授回診は、教授を筆頭にして入院中の全患者を診て回るもので、大学病院だけに存在する特殊な回診だ。)


病室に入ると、
健くんは入院してから点滴が始まり、いくらか元気を取り戻していたが、まだ顔色は悪かった。

しかし、訪れた僕らを見るなり、笑顔で迎え入れ、
「僕だいぶ良くなったよ。」
と伝えてくれた。

彼は笑うと目が『^^』という風になくなる。

それから医師達の、「昨日は寝られた?」「今お腹の痛みはどう?」といった質問に全て笑顔で返答していた。

4歳なのにしっかりと受け答えしており、
僕はまたも感心しながら眺めていたが、ふと違和感に気づいた。

笑顔がやたらと多い。

健くんはまだたったの4歳だ。

彼からしたら、具合が悪くて不安なのに、親と引き離され、病院に泊まることになったわけだ。

そんな中で朝から見知らぬ大人たちに囲まれ、色んな質問を投げかけられる。

それの一体何が嬉しいのか。何が楽しいのか。

疑問に思い、よく観察していると、
彼の『^^』は、話しかけられた瞬間から始まっているのに気づいた。

そう、彼の笑顔は、紛れもなく「愛想笑い※」だった。

※子どもの「愛想笑い」について
実は「愛想笑い」というのは、生後10ヶ月頃から見られると言われている。

この事実は母親を見たときと、見知らぬ人を見たときとで表出する笑顔の仕方が違う、といったことなどから明らかになった。

なので、子どもが愛想笑いをすること自体は実は不自然なことではない。

それでも違和感があったのは、本来かなり精神的にキツいであろうときでさえ、それをやってのけており、そして目までしっかりと笑っていることに「小慣れ感」を感じたからだ。

そして、その「愛想笑い」の習熟度において、4歳の域を優に超えているように見えた。

この短い人生で、一体何が彼にそんな「愛想笑い」を覚えさせたのか。

家庭環境に想いを馳せつつ、
僕は健くんのキャラクターに対して違和感を覚えるようになった。

○違和感が確信に変わった瞬間

さらにその翌日。入院3日目。

脱水は改善してきていたが、胃腸炎症状は続いており、まだ退院の目処は立っていなかった。

朝、母にそれを電話で伝えた。

その日の夕方、初めて母が病院に訪れた。

いくら共働きで忙しいとはいえ、4歳の子に丸2日会いに来ないのは疑問だったが、まあいい。

母が病室に入ってしばらくしてから、病状の詳細について説明をしに行くことにした。

検査結果の紙を手に持って、健くんの病室に近づく。

病室の扉は少し開いていたため、途中から2人の会話が徐々に聞こえてくる。

すると健くんはこれまで聞いたことのないような荒々しい声を上げていた。

「ママ、良い子にしてたらすぐ帰れるって言ったじゃん!」
「そうなんだけど、もう少しだけ頑張ろうよ。」

なるほど、彼は早く家に帰りたいがために「良い子」であろうとして、愛想笑いをしていたのか。

それにしても4歳でそれをやってのけるのは、やはり気になる。

そんなことを思いながら扉を開けようとしたとき、
耳を疑うセリフが聞こえてきた。

「帰れないなら、、、帰れないなら、、ぶっ殺してやる。

僕は驚いて思わず、「えっ」と声が出てしまった。

そしてそのまま両手で母の頭に掴み掛かろうとしていた。

「良い子」の裏にはそんな暴力性が隠れていた。

一方母は慣れた手つきで、その手を払い除けつつ
「そんな怖いこと言わないのー。」
となだめていた。

それにも僕は驚いた。

母は、4歳児の我が子が放つ「ぶっ殺してやる」に、大した反応もせず、自分への悪態と暴力を軽くあしらい続けていた。

それは、今回のようなやりとりが初めてではないことを、おそらく日常茶飯時であることを示唆していた。

この子は、、いやこの親子は何かがおかしい。

そう確信した瞬間だった。

○確信は「恐怖」に。

そして翌日。入院4日目。

健くんの状態は上向き傾向だった。

この経過であれば、明日には点滴をやめて、明後日には退院できるだろう。

チーム内で話し合い、そう方針を固めた。

その日の午後、診察をしに1人で健くんの病室を訪れた。

そのとき健くんは保育士さん※と一緒に絵を描いて遊んでいた。

(※小児科の病棟には保育士さんがいて、健くんのようなお預かりの子どもと一緒に遊んで過ごしてくれる。)

すると、僕に気づいた保育士さんが変なことを口にした。

今日健くん退院するんですってね。良かったです。」

そんな話は誰もしていない。

つい直前のチーム内カンファで、明後日の退院を目指すと決まったばかりだ。

この保育士さんは何を勘違いしているのだろうか。

「え?そんなこと僕言いましたっけ?
退院は早くても明後日の予定ですよ。」

すると今度は保育士さんの方が「え?」という顔になった。

「え?
だってさっき健くんが、
『先生が今日退院してもいいって言ってくれたから、お母さんに電話して』
って私に言ってきましたよ?


それを聞いた僕は思わず言葉に詰まった。

すぐ健くんの方に目をやると、彼はなんの悪びれる様子もなく鼻歌を唄いながら絵を描き続けていた。

健くんに感じていた違和感はもはや恐怖に変わっていた。

この子は嘘をついている。

それが嘘ということはすぐに分かる内容ではある。

でも、その嘘はデタラメなおふざけの類ではなく、
自分の要求を通すための、練られた嘘だった。

そして嘘がバレてもなお、彼は顔色一つ変えずに絵を描き続けていた。

僕が怖かったのは、そこに垣間見た「可能性」だった。

物心ついて1-2年の子どもが、人を騙し自分の利を通そうとしている。

その内容は4歳が考える嘘にしてはあまりにストーリー性がある。
「可愛いね」と笑って済ませられることはできなかった。

そして嘘がバレたときの何の屈託もない表情。

本人はあえて嘘をついており、その自覚があるのは間違いが無い。
それが見つかったのなら、気まずさや動揺があってもいいはずだ。

大人の言葉に対して一瞬で笑顔を作る少年が、嘘が見つかったときには顔色一つ変えようとしていない。

大人をも騙す狡猾さ、騙すことへの罪悪感のなさ。

この子が、これから10年、20年経って、さらに知識や経験を蓄えたとき、一体どんな人物になるのか。

子どもの「可能性」とは社会の希望そのものだと思っていた僕は、
まさにその「可能性」によって恐怖を抱かされていた。

○最後に

健くんが今回のようなことを引き起こしたのは親の要因が大きい。

面会に来る母親はいつもこれから六本木のクラブにでも行くようなファッションで、耳と鼻にピアスが空いていた。
そして両親は現在離婚調停中とのことであった。

きっと健くんは普段から親のケンカを目の当たりにしてきたのだろう。

その家庭が大きな問題を抱えているのは僕の目には明らかに見えたけど、
残念なことにできることはあまりなかった。

日本では「医療者が家庭に干渉する」ことへの障壁が高い。

医者が強制力を持って家庭に介入できるのは、なんらかの疾患や虐待の可能性が強く疑われるときだけだ。

この子が汚い言葉を使おうが、嘘を吐こうが、それだけですぐに精神疾患を疑うものではないし、
家庭環境の劣悪さの決定的証拠にもならない。

できることは、親への注意喚起や保健師の介入※くらいで、それらはどれも問題の根本的な解決にはならない。

※保健師
保健師とは「各地域にいる住民の健康増進をサポートする専門家」で、
業務内容は幅広く、子育てに不安要素がある家庭の相談に乗ってくれたりもする。

介入を依頼すると月に1回程度、その家庭に訪問または電話連絡し、何か困ったことがないかを尋ねてくれる。

あの嘘を目の当たりにした2日後、
もどかしさを抱えたまま、健くんが母親に連れられて帰っていく姿を見送った。

子どもが退院する姿はいつも微笑ましいけど、そのときは何とも言い難い気持ちだった。

僕はこの一件を通して、
子どもが持つ「可能性」とそれゆえの「危うさ」について再認識した。

『三つ子の魂百まで』と言うが、その上でやはり親の存在は大きい。

みなさんの周りには「愛想笑いが得意な子ども」や「怖いと感じる子ども」はいるだろうか。

もしくは、自分自身の幼少期を振り返って思い当たる節がある人はいるだろうか。

他人事ではなく、
家庭・家族について、その在り方について、考えるきっかけになれば嬉しい。

最後まで読んでくれてどうもありがとう。

 

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