【ユンゲ・フライハイト紙】トランスジェンダーの誇大宣伝: 薔薇色の子牛のまわりの踊り

2019年12月20日 

トランスジェンダーの誇大宣伝: 薔薇色の子牛のまわりの踊り

経済学者のMaya Forstaterが、トランス嫌悪だと言われる発言によって、貧困の撲滅のためのシンクタンク Centre for Global Developmentを解雇された。性別は二つしか存在しないこと、男性は女性にはなれないことを、彼女は勇気をもって主張していたのであった。

ロンドンの労働裁判所は、彼女のかつての雇用主の決定を認めている。「意見の自由を顧慮したとしても、それが他の人間をその尊厳によって傷つけたり、敵対的な雰囲気を作り出すときにでも、その意見は保護されうるということが期待されるべきではない」。

性転換など存在しない
この出来事が衆目を集めるところになったのは、ハリー・ポッターの作者であるJ.K.Rowlingが、Forstaterと連帯したからであった。いまや、このベストセラー作家までが、トランス嫌悪として批判されている。ほんの数年前にはRowlingは、魔法の達人Albus Dumbledoreが同性愛者であることを説明したことによって、「多様性」の輝かしい事例として祝福されていた。しかしながら、この「アウティング」は後付けのものであった。というのも小説において、彼の性的方向づけは、何の役割も担っていなかったからである。

疑う余地もなくForstaterは正しい。なるほどトランスセクシャルの人々は、自らの日常生活において新しい性的な役割を見つけ出しているかもしれない——しかしながら生物学的には、なおも彼ら/彼女らは、もともとの性別に帰属しているのである。またしばしば唱えられる性転換というのも存在していない——医学的には性の同一化が語られるだけである。

染色体上の性の同一性は変わることがなく、新たな生殖器には生殖能力などないし、いかなる性ホルモンも分泌しない。それは人工的に投与されなくてはならないのである。手術の後においても、多くのトランスセクシャルの人々は、外見的にそのままのものとして認識できる。ひげの成長や声は、しばしばなお元来の性別に似ているのである。

プッシー・ハットの拒絶
リベラル左翼界隈は、科学に対して分裂した関係をもっている。進化論を拒絶するような保守的なキリスト教徒は嘲笑される——にもかかわらず、トランスセクシュアリティをめぐる論争においては、生物学的な事実は、もはや認めるべきものではなくなるのである。ここ数年において、この黄金の子牛のまわりの踊りは、ますます奇矯な形態と取るようになった。2017年には、新たなアメリカ大統領であるドナルド・トランプに抵抗するフェミニストの女性たちは、女性器を思わせるようないわゆるプッシー・ハットというピンクの帽子を身にまとった。一年後には、ひとはまたそれから距離を置くことになった。というのも、この「プッシー・ハット」は、「茶色い女性器」をもった女性や男性器をもった女性を排除している、人種差別的でトランス嫌悪的なものだという風に認識されるようになったのである。

自分を女性として感じていながら、なおも陰茎と睾丸を保持しているJessica Yanivは、あらゆるところにトランス嫌悪を嗅ぎつける。最終的に彼女は、陰部脱毛や産婦人科への訪問から、意図的に締め出されることになった。Sessie Blanchardは『Vice』誌上において、なぜ多くの異性愛的な男性が彼女とセックスをしたがらないのか、これは不寛容ではないか、と問いかけた。セックスは常に同意の下であるべきとする「ノーはノーである」というフェミニストの方程式は、この場合にはどうやら妥当しないようである。

と同時に彼女は、意図的にトランスセクシュアルの人々とセックスをすることを求める男性にも文句を言っている。レズビアンとのセックスを求めてうろつきまわるあ男性の意見は、リベラル左翼陣営においては、おそらくセクシズムであって、「勇敢な」ものとしては受けいれられないのである。ここ数年において、このようなテーマがあらゆるところで語られている。ますます頻繁に、ユニセックスのトイレの必要性が議論されている。たとえば2014年以来、シュピーゲルのアルヒーフは、「トランスジェンダー」や「トランスセクシュアル」というような概念の爆発的な増大について示している。

犠牲者物語
また、さまざま心理学の研究組織が、まさに「氾濫」が起こりつつあることを報告している。ますます多くの若者が、自分自身の身体に対して違和感を抱くようになっているのだ。科学者が恐れるのは、自分の性的同一性について疑いをもつことが「かっこいい/流行」ことになってしまうことである。多くの人々が、いつの日かまた以前の性別に戻ることを望んでいることは、メディアにおいてはほとんど伝わってくることはない——しかしながら手術による処置は不可逆のものであり、自殺の多くの事例が知られている。

現在におけるトランス礼賛においては、一つには、お好みの犠牲者物語が一役買っている。自分自身が高貴な騎士であると感じるために、援助したり庇護したりできるような、ますます多くの差別されたマイノリティが探し求められているのだ。人種や宗教や性や障害による差別は、いまや、性別上の傾向まで拡大されたのだ。

しかしながら、ひょっとするとまったく別の何かも役割を果たしている。ジェンダー研究においては、つねに「毒性の男性性」に対する警告がなされてきた。これこそが、世界中のほとんど悪の責任を負うべきものなのである。戦争に対して、殺戮に対して、殺人に対して、である。そしてまた強姦に対して、資本主義における搾取に対して、非合法な路上レースにおける死亡に対して、病気による死亡例に対してもである、というのも「ほんものの男」は、すぐに病院にまで走っていかないからというわけだ。

問題となっているのは再教育である
異性愛的な白人男性を、地上に最終的に楽園を築き上げるために、性別なき中性的存在へと再教育することが、それほど好ましいことなのだろうか。いずれにせよ、この点においてジェンダーのイデオローグたちは間違っているのだ。自分が感じている性別と生物学的な性別は、多くの人がそう信じたがっているように、お互いに独立したものではないのである。

性というのは、可塑性のあるものでもなければ、自由に選択できるものでもない。トランスセクシュアルの人々は、ただの気まぐれによって自分の性別を変えようとするのではない。大抵の場合において、それはホルモンの影響であり、それによってある男性がむしろ女性的な脳をもったり、またその逆が起きたりするのである。だからこそ、トランスセクシュアリティが証明しているのは、人間に対する生物学の強い影響なのであり、それは生物学を否定するものではないのである。

https://jungefreiheit.de/debatte/kommentar/2019/tanz-ums-rosafarbene-kalb/

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