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歴史の勉強って、実はめちゃくちゃ「大ごと」だ

「歴史を学ぶ」とは、どういうことでしょうか。

最近、既存のものがどんどん「なかったこと」にされている状況を目の当たりにしますね。

少し前は外国の銅像が「この人物が奴隷を所有していた」という理由から取り壊されたり、つい最近は東京ディズニーリゾートから「ジッパディードゥーダー」の音楽が消えると話題になりました。
(この歌は、黒人のあり方が歴史とはかけ離れている、との批判を受け、事実上の発禁状態になっているディズニー映画『南部の唄』の主題歌です。『スプラッシュマウンテン』の原作と言った方が分かりやすいかもしれません)

都合の悪い歴史を葬り去ることが、はたして「誰もが生きやすい社会」に繋がるのでしょうか。

冒頭の問いの答えですが、私は「歴史を学ぶ」とは「過去と現在を結びつける」ことだと思っています。

例に出した「銅像や映画、歌が物議を醸す」という現象自体が、日常の中で歴史を学ぶ「生きた教材」です。教科書の中からだけでは学べないリアルな体験が、そこにはあります。

例えば、歴史の中でどのような経緯でそれが起きたのか。過去の価値観と今の価値観に違いはあるか。どのような経緯で、その銅像や映画が作られたのか。それから、それに対する大衆の受け止め方は時代によってどう変化したのか。それを取り巻く社会情勢など、ひとつの事件にはたくさんの切り口があります。

現代社会では、「学校で学んだことを社会で活かす」という意気込みをよく聞きますよね。ですが、どうも歴史というと役に立たない学問だという思い込みが社会全体にあるようです。とんでもございません。歴史とは、普段の生活と密接に結びついています。決して本の中だけの出来事ではないのです。終わってしまった出来事を過去形として教えるだけでなく、それが元で現在まで続いている諍いや時事問題と結びつけることが、真の意味で「歴史を学ぶ」こと、そこまでして、ようやく「歴史を学んだ」ことになるのではないでしょうか。

そのためには、映画作成や銅像などの「現代のミス」を消すことなく、何らかの形で残してほしい、と個人的には思っています。例えば銅像なら博物館に寄贈したり、映画には年齢制限をかける(史実を理解している年齢にする)など。自分の生活と結び付けて学習したことは忘れませんし、より「自分ごと」として捉えられるようになるのではないでしょうか。数十年後の子どもたちのことを考えると、ただ「この映画は史実と異なるため、発禁処分になりました」と本で学ぶより、実際に映画を見て、自分で考えさせる方が彼らのためになるのではないか、と思ってしまいます。

しかし、当然問題はあります。まず、被害者の気持ちは当然考慮されるべきです。当事者でないと分からない苦しみがあるでしょう。また、全ての国が日本のように公教育が充実しているとは限りません。学校に行けなかった、もしくは行かなかった人が例の映画や銅像に触れたら……ということも考えなくてはなりませんね。

この問題は、歴史教育における大きなジレンマだと思います。歴史と社会問題は切り離せません。社会問題を深く知るためには歴史を理解することが重要ですが、どこまで触れるべきかはかなりセンシティブな問題です。教師や生徒にも、被害者側の立場の人がいるかもしれませんよね。起こってしまった出来事を事実として冷静に受け止めることは大切ですが、私たちは人間、感情が絡む生き物。ほんの少しとはいえ歴史学に触れた身としては、残せるものは残してほしい、教育や研究に利用することでいい社会を作りたいと思ってしまいますが、当事者の立場を考えるとやはり、それだけでは済まない問題です。

歴史って、実は扱いが難しいものなのですね。ただ暗記だけしていればよい科目ではないのです。現代社会の諸問題は、近現代史が尾を引いていることがほとんどだと私は感じていますし、中には中世まで遡ることができる問題もあります。歴史は続いている、とはまさにこのこと。問題はぽっと出てくるものではなく、長年の積み重ねがゆっくりとこじれて生じるものです。

問題を解決するためには、教育現場で歴史を学ぶことは不可欠。ですが、さまざまなバックグラウンドを持つ人が共に暮らしている現代、その扱いには細やかな配慮が必要になってきています。歴史の定義は勝者と敗者、また抑圧した側とされた側では大きく異なるものです。ひとつの「終わってしまった出来事」つまり歴史をさまざまな視点で捉えてみることが、「多様性を考える」ことに繋がっていくのかもしれません。

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