見出し画像

にがうりの人 #87 (廻る言霊)

 神崎太一は狼狽えていた。
 新宿の一等地に屹立する巨大ビルの高層階に複数フロアーを本社として構えるまでに自社を成長させ、地位も名誉も得た人間とは思えない程青ざめていた。

 ここのところ、どうもついていない。

 溺愛していた女秘書は経営コンサルタントの男に奪われ、金まで持ち逃げされてしまった。
 こんな屈辱は初めてだった。自分が著名になってしまった今、こんな事は口が裂けても他人には言えない。

 どちらかと言えば女の扱いは得意であった。もっといえば能動的に行動しなくても向こうから寄ってくる。つまり、不自由はなかった。
 ところがその女だけは違った。女は秘書にしておく事が惜しいほど魅力的であり、神崎は自分を忘れるくらいに相当入れ込んだ。
 女の肉親が大病を患っていると聞けばその治療費を工面したし、母親がサラ金から借金をしていると聞けば、代わりに返済したりもした。当然のようにブランド品のバッグや靴も買わされたが、時折見せる健気な一面が神崎はいたく気に入っていたのだ。

 ところが信頼を寄せていた経営コンサルタントがいつの間にか女に近づいていたのである。
 男は如才なく、仕事もそつなくこなした。神崎も男にだけは公私問わず、もちろん女の事も相談したりした。
 それがどうだ。
 一度に二つの信頼関係を失い、若い頃は切れ者と謳われた神崎もさすがに滅入っていた。

 それだけではない。最近になって若い経営者連中や、財界人が集まる会合の場でも何故か違和感がある。雑談を交わしてもどこか見透かされているようで神崎は気が気で無かった。それが何なのか神崎には判然としなかったが、決定的だったのはある一冊の書籍を開いたときだった。

 それはデビュー作にして某有名文学賞を受賞した作家の作品だった。もともとゴーストライターとして細々と生計をたてていた男が満を持して自分の名で書き下ろしたものらしい。分厚い書籍の帯にはやせ細って血色の悪い軟弱そうな青年がカメラマンに懇願されたのか、引きつった笑顔を作っている。
 それよりも問題は中身である。

 とある貧しい男が作家として華やかにデビューし、裕福になって学習塾を経営するが、自身の右腕と買っていた男に殺人の濡れ衣を着せられ、一生を終えていくという悲劇だった。

 これは俺の過去だ。

 神崎は真っ先にそう思った。作品の設定としてはありがちなものかもしれないが、細部の描写が酷似しすぎている。これは神崎の過去を知っている者にしか書けないはずだった。
 だが、神崎にはこの作者に覚えが無い。
 一体どういう事なのだ。今も社長室に置かれている大型テレビからその作品に関するニュースが流れている。どうやら早くも映画化も決まり、作者へのインタビューが始まっていた。

続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?