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にがうりの人 #70 (晦冥の奥)

 これはどう言うことだ。目の前にいるのは罪の無い人間を三人も殺した殺人鬼である。慮る必要などないはずだ。私は矢も楯もたまらずそれまで感じていた憤りを爆発させた。
「どうして人殺しなんてしたんだ!気でも狂ったのかよ!」
 アクリル板を強かに殴打し、色をなして取り乱す私を津田沼と高峰弁護士は慌てて押さえつけた。
 なぜ父は殺人を犯したのか。
 これから私達家族はどうなるのか。
 頭の中であらゆる疑問や怒りや葛藤が交錯し、やがて情けなさに変わり私は膝から崩れた。とめどなく涙が頬を濡らし、嗚咽を漏らす。
「ごめんな」
 父がかすれた声を吐き出した。切実で悲痛でやりきれない声色だった。私は涙を拭い顔を上げる。

「強く生きて行きなさい」

 父は両目を赤く腫らし、苦悶の表情で母親が最期に遺した言葉と同じ事を言った。そこで面会時間の終わりを告げに刑務官が近寄ってきた。父は静かに背をむけ、刑務官に連れて行かれる。

「父さん」

 考えるより早く口走っていた。父は振り返る。力無く笑顔をこぼし、目に涙をためた。

「元気でな」

 そう言って再び背中を向けた。小さいその背中がドアの向こうに消えた時、私は言いようの無い孤独を感じ、再び激しく慟哭した。

 結局、父から真実を聞くことは無く公判が始まった。高峰弁護士は辛いかもしれないが父親の裁判は最後まで傍聴するべきと主張したが、津田沼が断固として私を出席させなかった。それは結果が概ね明らかであることが理由である。マスコミは三人もの犠牲者を出した事件性を鑑み死刑を予想していたし、法的に見ても一般論としても十中八九極刑は免れないであろう。私がその経過を知ったところで辛い現実は変わらず、だとすれば自分の人生に目を向けるべきだ。津田沼はそう言った。頼れるのはもはや津田沼しかおらず、私一人で何もかもを背負うには幼過ぎてそれに従わざるを得なかった。
 だが、私はそれを後悔することになる。
 初公判から数日後、父は拘置所で自らの命を絶った。
 刑務官の目を盗み、密かに隠し持っていたボールペンで頸動脈を一突きしたらしい。すぐに発見され病院に搬送されたが、私と津田沼が病院に駆けつけた時には既に息を引き取った後だった。

         ✴︎

 霊安室は冷たい風が吹いていると錯覚するほど無機質で拘置所の面会室と似ている。部屋の中央にはベッドが置かれ、白いシーツにくるまれた人間が横たわっていた。警察の関係者が神妙な面持ちで話しをしている脇をすり抜けると、皆一様に頭をさげてくる。
「ご家族の方でいらっしゃいますか」
 ベッドの傍らで医師と思しき男がしかつめらしく言った。津田沼が私の背中をそっと押し、私はこくりと頷く。辺りに緊張感が走り医者はベッドの上の白いシーツをめくる。周囲が暗くなったが、それが自分の焦点が合っていないことだと気付き立ちくらんだ。

続く

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