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にがうりの人 #84 (辛苦の陶酔)

 見るからに強欲そうなその老人は私に近づき、こう囁いた。
「あんた身なりはいいが、こちら側の人間じゃないな」
 こちら側という言葉が私の心のひだに引っかかった。何を持ってしてこちら側と言うのか。だが、その鋭い眼光は確かに尋常ではない。私は狼狽した。
「金の無い人間に何の価値がある。悪い事は言わない。早くここから立ち去るがいい」
 老人は見下した目で私を一瞥し、背中を向けた。
 しかしチャンスだと思った。私は老人に駆け寄り耳打ちする。

「私の過去を買いませんか」

 地位や名誉、そして莫大な財産を築いた事により現実と非現実との境目が朦朧としている彼らにとってそれは魅惑的な誘いであったのかもしれない。
 老人の目の色が変わり、見方によっては子供のような表情を浮かべた。
「それはどういう事だ」
 この好奇心の強さが彼に人とは違う人生を歩ませたのだろうと思った。とにかく私は取引内容をその場で詳らかにした。

「面白い。話ぐらいは聞いてやろう。ただし、納得出来る代物でなければ、金も払わんし、次の客も紹介する事は無い」

 納得出来る代物。
 それは不幸であれば不幸な程良いという事だ。その悲劇的な反比例が私にも彼らにも必要なのだ。
 老人の条件は厳しかったが、これを足がかりに財界、政界の信用を積み重ねるほか無い。彼らは他人の足を引っぱり、奈落の底へ突き落とす事に興奮を覚える。言い換えればそれが彼らの商売に直結していると言える。
 だから私には自信があった。彼らは地の底まで落ちた人間のその後を知りたいはずだ。知って自分の「今」を確認したいはずなのだ。

 結論から言えば、この老人との取引は成功した。そしてこれを契機に私はこの仕事を軌道に乗せる事が出来た。
 様々な職業の人間と接し、過去を売る。
 恥も外聞もない。
 あるのは一つの目的に向かう事だけだった。
 しかし過去を売る事は自分の中から自分が抜け落ちていくようで私はある種の恐怖を感じるようになっていた。
 このまま私はどうなってしまうのだろうか。
 少しずつ見えてくる底。それは小さかった穴が次第に大きさを増すように、低かった水位が増えていくように私を息苦しくさせる。
 人間は生きてさえいれば過去が減る事は無く、増える一方である。生きてさえいればそれは無定量なのだ。
 だが私にとってそれを売り続ける事自体に意味はないはずだった。私はこの虚無感に見切りをつけなければならない。そう感じて意識的に過去を作らない事に徹した。退屈で平穏な日々を淡々と送る事で一日一日を無為にする。

 そして重大な事を決意した。この商売を始めた日までを私の人生とし、それ以前の過去を全て売り払うまでに津田沼を探し出す。もし探し出す事が出来なかった場合、それは私の終わりを意味する事とした。
 行方の知れない津田沼との対峙。
 津田沼が終わるか、私が終わるか。皮肉にも私に残された唯一の希望がそれだった。

          ✴︎

 そして今日、私は全ての過去を吐き出した。これで私には何も無い。
 引き換えにしたわずかな金とこの身体以外は。いつかの老人が金のない人間に価値はないと言った。しかし今になって私は思う。
 過去の無い人間に価値はない。
 結局、津田沼を探し出す事は出来なかった。惜しむらくはそれだけだが、仕方の無い事だ。
 私は私で無くなった今、過去が無くなってしまった今、未練などある訳が無いのだから。

続く

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