にがうりの人 #86 (星とコンクリート)
「ああ、もう」
背後から聞き慣れた声が心底煩わしそうに飛んできた。
「面倒くさいなあ」
振り返ると茶色に痛んだ髪を掻きむしりながら女が立っていた。
「こういう白々しい展開って好きじゃないんだよねえ」
女は口を尖らせて睨んでくる。
「どうせ死ぬ気なんでしょ」
キンとした夜の空気が辺りを包んでいる。
「あんた誰だか知らないけど、ありがとな」
そう言って私は馴れない笑顔を作った。最期の最期にこうして私を気にかけてくれる人がいる。たとえそれが本心でなくとも、嬉しかった。
私は欄干にのぼり、その上に立った。風が吹いてふらつくが不思議と恐怖は無かった。いや、恐怖などとうの昔に忘れたのかもしれない。
「後悔なんてしていないんだ」
晴れ晴れした気分は確かだった。それが、悟りだとか達観の類いなのかはわからない。
私は目を閉じた。何も見えない。何も聞こえない。
のはずが、突然、笑い声が聞こえる。私は挙をつかれ、目を開けた。
「何がおかしい?」
仕舞いには腹を抱えて笑う女に私は清々しい気分を台無しにされたようで苛立ちを覚えた。
「何芝居がかってんのよ。死にたければ勝手に死んでもらって構わないんだけどさ、わざわざ私に話したのって何か意味あるわけ?やっぱり死ぬなって言って欲しいから?」
「ふざけるな。そんなんじゃない」
自分でも驚く程の大声を発していた。夜の静寂に響く。先程までの爽快感は微塵も無い。
「あんたさ、自分の人生が全部悲劇みたいに語っているけど、楽しかった思い出はどうしたのよ。無かったなんて言わせないからね」
言い返せなかった。目的のあまり見て見ぬふりをしていた節もあるし、単純に商売柄扱える代物でもなかったからだ。
「ほら、あるんでしょ。悲しい過去ばっかり捨てたなら、あとは楽しい思い出しか残ってないじゃない」
「そういう屁理屈はもう、いいんだ」
自嘲気味にそう言うと、女は険しい目つきになった。その慧眼に私は石のように動けなくなってしまった。
「屁理屈はそっちでしょ。あんたの話って整合性がとれてないんだよね。なんというか、ご都合主義っていうかさ。大体時間はあんたに関係なく流れていくんだから、あんたがどんなに過去を投げ捨てて足掻こうがどうしようもないんだから」
女は早口でまくしたてる。私は思わず欄干から降りて女を睨んだ。
「時間の概念なんてのはな、生と死があるからだ」
私は再び口を尖らしてよく分からない事を叫んだ。やはりこの女に最後の告白をした事は軽卒だったのではないか。礼を言ったのすら後悔した。
「そうやって当たり前の事をさも大発見のごとくのたまう哲学なんて胡散臭いわよ」
女は両手を広げ、呆れ顔をした。
そして、遠い目をした。まるで私を見ていないようだった。
「あんたさ、知ってる?」
「何をだ?」
「天に向かって唾を吐いたらどうなるか、知ってる?」
「え?」
出し抜けに女の口から出たその言葉に私は一瞬たじろいだ。
遠くで消防車のサイレンがこだましている。
続く
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