謙助

たいせつな本とのこと

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マガジン

  • 脱社会的交換日記

    • 27本

    小市民たちの日記。交換日記と名乗ってはいるけれど、その実、ペン売り場の長いロール紙のような無法さである。

最近の記事

(まじでそう思わねえとやっていけねえ)

    • 昨日、旅行用で使おうと思っていた夜行バスのサイトがサーバーダウンし、4年ほど使っていたメガネがぶっ壊れ、車のタイヤのパンクに気づいた後もパニック状態でしばらく走り続けてしまった結果、ホイールやサスペンションに深刻な傷を負わせてしまったけど、今日の淡路島旅行でチャラになるという噂!

      • 子が親をうむという時間感覚

         真木悠介さんの『時間の比較社会学』という本がある。私はこの本から、「いま・この瞬間を生きること」の大切さを教わった。完璧に実践できているとは到底言えないが、そういう時間感覚がこの世にはあるのだ、あってよいのだ、と思えただけでも、私の自意識はずいぶんと、救われたような気がした。  常に将来のことを考えている状態とは、いま・この瞬間のよろこびを将来へと絶えず、先送りにしている状態である。ぜんぜん楽しくない勉強に毎日欠かさず取り組む理由。そりゃ「将来のためでしょ」と多くの人は答え

        • 複数の文脈

           働いていると、絶対そんなはずがないのに働くことイコール自分の人生みたいに思えてきて、ほんらいは複雑で多様なはずの生活のエネルギーが、「仕事」というどてがい1本のタワーに効率よく、ぞくぞくと吸収されていくような脱力症状に襲われ、私含めた人類ひとりひとりのサステナビリティに思いを馳せる、仕事終わりのモスバーガーなり。みなさま、本日もお疲れ様です。アイスコーヒーうまい。  人生の文脈が「仕事」だけになるのはよくない。「仕事」という唯一絶対の文脈と関係のない情報が文字通り「ノイズ」

        (まじでそう思わねえとやっていけねえ)

        • 昨日、旅行用で使おうと思っていた夜行バスのサイトがサーバーダウンし、4年ほど使っていたメガネがぶっ壊れ、車のタイヤのパンクに気づいた後もパニック状態でしばらく走り続けてしまった結果、ホイールやサスペンションに深刻な傷を負わせてしまったけど、今日の淡路島旅行でチャラになるという噂!

        • 子が親をうむという時間感覚

        • 複数の文脈

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        • 脱社会的交換日記
          27本

        記事

          読む人の中動態

           考える。読む。そのいずれでもない、読んでから考える、があると思う。いや、読みながら考える、かもしれない。考えることは大事。ここを疑う余地は、少なくとも私の中にはない。いまひとつ分からないのが、考えることのために読むことは、いったいどれほど大事なのだろう?というもの。  ふつうに考えて、読まなくても、考えることはできる。当たり前だ。読んでない人がみんな、考えてない人なわけがない。長い時間をかけて人と喋っていると、この人こんなにいろんなこと考えて生きてるのか、ぜんぜん気づかんか

          読む人の中動態

          人間の堕落を理解すること

           ここ一か月ほど坂口安吾という人の文章を、ちょびちょびとだが読んでいる。最も印象に残ったのが「特攻隊に捧ぐ」という文章での、次の一節。  「戦争は呪うべし、憎むべし。再び犯すべからず。その戦争の中で、然し、特攻隊はともかく可憐な花であったと私は思う。」  終戦から2年が経った1947年に、この文章は書かれている。戦争を知らない我々世代による適当な放言ならばともかく、戦争を知る文学者による真面目で、切実な思いのこもった文章において「特攻隊はともかく可憐な花であった」と言われるの

          人間の堕落を理解すること

          欲望させる批評

           本の感想を書いているノートを読み返すと、ここ一年くらい新しく読んでいる本が、だいたい小説であることに気づく。大学の頃しょっちゅう悩まされていた「小説を読むとは何か」みたいな問いとも、最近はずいぶんとごぶさたしております。もちろんいまでも「小説を読むとは何か」は分からない。自分なりの意見があるっちゃあるけど、それが正しいものなのかには自信がもてない。さまざまに小説は書かれているし、さまざまに小説は読まれている。  小説を読むのが好きなのだとは思う。でもその理由は、はっきり言っ

          欲望させる批評

          聞くことの賭け

           あらゆる行動の動機は「自分のため」。今日、多くの人がこの世界観を、信じているのではないかと思う。道端で転んでいるご高齢の方に手を差し伸べるのも、困っている友人の悩み事を聞くのも、この世界を善くしたいと思うのも、神さまを信じるのも、ぜんぶしょせんは、自分のため。たとえその結果失敗したとしても、それはあなたの責任です。自己責任です。  大学の頃よくわからん本ばっか読んでいたせいもあるのだろう、私はこの、「すべては自分のためなのかもしれない」という疑いに日夜、悩まされていた。もし

          聞くことの賭け

          偽善、いき、推し

           大学に入ってすぐ超博識な先輩に誘われ、「社会契約論」の勉強会に参加した。「政治学」を専攻する予定の、先輩だった。初回で概略を説明し二回目から実際にホッブズ、ロック、ルソーなどのいわゆる「古典」を精読していくという会で、いま振り返るとなっかなかにハードなものだったと思う。一年生ならではのイキった感じが、その会への参加を後押ししたのだろう。  無知とはどういう状態かというと、感想が大雑把になってしまう状態のことである。なぜそんなことが分かるのかというと単純に、当時の私がそうだっ

          偽善、いき、推し

          廃墟はいまだに現在

           親戚に大学に進学したものや、県外で就職したものがいないせいか、私が東京の大学に進学したのはとにかくスゴいことなのだとされる。大学進学のために猛勉強したことよりも、岡山とまったく異なる文化や、ライフスタイルから成る東京都という場所で、毎日を生きぬいていけたことのほうが褒められるのは不思議というか、親戚ならばまずは猛勉強のほうを褒めなさい。褒めてください。  平成生まれの人間からすると、東京と地方の間にかつてほどの明確な違いはなく、昭和生まれの人たちはその違いをどういうわけかい

          廃墟はいまだに現在

          不良少年はキリストの夢を見る

           昨日母親と一緒に叔母のスナックに行き3人でいつも通りの昔話や最近読んだ漫画の話、そして死刑制度に賛成か反対かという謎の話で盛り上がった後、カラオケで尾崎豊の歌を4曲歌った。最初「15の夜」を歌い、つぎに「ダンスホール」を歌った。しばらく休んでから「LOVE WAY」を歌い、最後に「太陽の破片」を歌った。尾崎の歌詞をなぞり、うめくようなかすれ声を出すたびにいつも、私は苦しい。だがこれは、忘れてはならぬ種類の苦しさなのだと思う。尾崎の歌は苦しいが、その苦しさを私の苦しさは、欲し

          不良少年はキリストの夢を見る

          ケチャップみたく、ポリコレ

           中学の野球部連中で一人だけ公務員になったやつがいて、そいついわく俺は中学の時点で「お前は公務員になると思われる」と本人に向かって、予言を放っておったらしい。覚えてねえけど。そん時もいまも公務員とは何ぞや、という感じではあるのだが、おそらくは公務員という言葉のまわりを勝手にうろついていたイメージたちが時間をかけてそいつの性格とバッチリ符号し、さきほどの予言が、導き出されたのだと思う。  しかし、公務員のイメージとは?「お役所仕事」という言葉があるが、もしそれがマニュアル的・定

          ケチャップみたく、ポリコレ

          子ども的ー大人的二重体

           最近になって私は「喋っている自分」よりも「書いている自分」のほうが好きなのだと気づいた。好きなだけで得意だとはまったく思わない。それが不思議。  大学生の頃から紙のノートに、読んだ本の感想や今日あった出来事を書く習慣があったはあったのだが、それらはとりとめもなく断片的に、書かれることが多かったように思う。理由はたぶん単純に、書いていると手が疲れてくるから。頭が疲れるよりも先に手が疲れてくる。定期的にばあちゃんが手紙を送ってくれていたのだけど、中を開くと何枚にも及ぶ高級そうな

          子ども的ー大人的二重体

          イエスでありノー

             哲学書、じゃなくても何か抽象的で、壮大な内容が書かれた本を読む時に必要とされる態度は、いったいどういうものなのだろう。書かれた内容を100%信じきる態度だろうか、それとも100%疑ってかかる態度だろうか、それとも50%信じて50%疑うという、「バランスのとれた」態度だろうか。 100%信じきることは盲目的な信仰や、陰謀論に接近してしまうリスクがある。100%疑ってかかることは無気力な相対主義、冷笑主義に堕してしまうリスクがある。そうするとやはり、適度に信じ適度に疑うと

          イエスでありノー

          言葉の人であればあるほど

           平均して2週間に1回祖父母の家に行って、畑作業の手伝いをしている。厳密には、手伝いとは言えないかもしれない。役に立てていないから。器用なことはできず、力作業がほとんど。それでも、良い。頭をからっぽにして、ただただ体を動かすことだけに集中すること、いや集中することすらも頭の外に放り出して、なにかの「モノ」へ、なにかの「カタチ」へ、自分をつくりかえていくこと、あるいはつくりかえることより前にあったはずのぼうっとした世界の一部に、勘違いした私のこわばりを、ぶじにげんきに、帰してや

          言葉の人であればあるほど

          共に生きているはずの私たち

           とある年上の知人に「スナックでお金を落とすのは社会貢献ですよ」と言われたことがある。何を言っているのかよく分からなかったので「ほお?」みたいなとぼけた顔をしているとその人は続けて次のように言った。  「だってスナックで働く人にはシングルマザーの人とか、家が貧乏でまともな教育を受けられなかったような人が多いでしょう。でも彼女らはスナックで働くことで、ふつうの企業では考えられないような高い給料をもらえている。実際、スナックの料金設定は基本的にぼったくりに近いと僕も思う。それでも

          共に生きているはずの私たち