欲望させる批評

 本の感想を書いているノートを読み返すと、ここ一年くらい新しく読んでいる本が、だいたい小説であることに気づく。大学の頃しょっちゅう悩まされていた「小説を読むとは何か」みたいな問いとも、最近はずいぶんとごぶさたしております。もちろんいまでも「小説を読むとは何か」は分からない。自分なりの意見があるっちゃあるけど、それが正しいものなのかには自信がもてない。さまざまに小説は書かれているし、さまざまに小説は読まれている。
 小説を読むのが好きなのだとは思う。でもその理由は、はっきり言ってよく分からん。友達や親から漫画や映画でよくね?と言われる度に、小説固有の楽しさ、面白さみたいなものを、考えなければいけなかった。どうして自分は小説を読んでいるのか?という内省を、止めることができなかった。
 そういう時の助け舟が「批評」だった。当たり前の話だが、小説の中に小説の読み方は書かれていない。小説を読める人だけが、小説を読む。へんな言い方。「小説を読むとは何か」を考えながら小説を読んでいる人もいるのかもしれない。でもそれは一般的な「小説を読む」からするとやはり、イレギュラーな読み方ではないかと思う。批評は私に、小説の読み方を教えてくれた。「小説を読むとは何か」を、教えてくれた。
 別の言い方をすると批評は、小説への欲望形成を支援してくれる。小説を読みたいとは思う。けれどもその読み方が分からない。小説が好きな周りの人たちは小説の読み方なんかを、いちいち考えていない。あまりにも当たり前のことすぎて。悪いことではない。「好き」とはそもそも、そういうものだと思うから。
 批評が嫌われる理由も、よくわかる。特に小説好きの人たちからすると批評の偉そうな感じが、気に障るのだと思う。ある小説を、へんに他の小説や時代背景と結びつけながら、小難しく理屈っぽく解釈を披露する批評に対して、反発を感じてしまう。「小説を読むってそういうことじゃなくね」、と。
 そういうこと。それが分かれば苦労しない。みたいな人もいる。だったら諦めよう。別のことをしよう。幸い、娯楽は他にもたくさんある。小説だけに、こだわる必要はない。と、普通はなりそうなものだが、なぜだかなぜだかなぜだか、そうはならない人がいる。わけもわからないままに小説への欲望を、どういうわけか断念できない人がいる。そういう残念な人を、批評は救ってくれる。
 柄谷行人という文芸批評家が「批評は広告に似ている」みたいなことを言っていた。広告は私たちの「欲しい」を誘導する。操作する。自分にとっての「欲しい」と、他者にとっての「欲しい」が一致する。誰かが欲しいって言ってたから、私も欲しい。主体性の欠如。それこそが広告の問題であり、消費社会の問題である。よく耳にする。
 批評だってそうだ。柄谷さんの「意識と自然」という夏目漱石批評を読んだ瞬間、私の欲望はまんまと誘導され、操作された。「漱石の小説ってこう読めばよいのか!」と一つの道へ案内され、それと同時に「俺は漱石の小説をこう読みたい」の感覚が、あっさりと消えた。私は柄谷さんの批評によって、漱石の小説をもっともっと読みたいと思わされた。実際その後、まだ読んでなかった漱石の小説を買って読んだ。これはつまり、柄谷さんの漱石批評という広告に私はひっかかり、漱石の小説を買わされてしまった。そのように言うこともできるだろう。
 しかし「買う」と「買わされている」の違いは、それほど明確だろうか?じつは最も危険なのは、「買わされている」状態それ自体ではなく、本当は「買わされている」にもかかわらず、自己意識としてはこれは「買う」だと思い込んでいる状態、つまり「純粋な自分自身の欲望がある」と信じてやまない、勘違いの状態なのではないか?
 自分自身の欲望を発見したい。けれども私たちは、他者の欲望からは逃れられない。その不快感を無理やり突破しようとして「純粋な自分自身の欲望」を捏造することが、一番よくない。唯一できるのは自分自身の欲望のルーツを、できるだけ明確にすること。確かに私の漱石読解は、柄谷さんの批評に多大な影響を受けている。柄谷さんの読み方によって私の読み方は、綺麗にねじ曲げられてしまっている。けれども私は少なくともそう思うことによって、「私オリジナルの読み」という虚偽意識から、逃れることができている、とも言える。
 私たちは、なかなか自分自身の欲望を持てない。だから他者の欲望に依存する。「批評」や「広告」に頼る。それは避けられないことなのかもしれない。けれどもその構造それ自体を「意識」することはできる。この「意識」の有無が、「批評」と「広告」を分ける。自分自身の欲望が分からない。かといって広告の波に、うまく乗ることもできない。おそらくそういう時に、批評は必要とされる。欲望が危機に陥った時のために、批評は存在している。
 東浩紀さんという批評家が「批評とは愛の言葉に似ている」みたいなこと言っていた。「誰かのことを愛している」状態は「誰かのことを愛しているということを常に意識している」状態を意味しない。むしろそれは、不自然だと言われるかもしれない。
 これまでの関係がうまくいかなくなった時、つまり愛の関係が危機に陥った時にこそ、愛の言葉は求められる。そこでの愛の言葉が、これまで通りの紋切り型である必要はない。「そもそも愛とは何か」を考える局面が、人生には必ず訪れる。そこで考えを改め、深めていくことによって、古くもあり新しくもある愛の関係が、これからも続く。欲望の在り方が、再形成される。
 私はいま、小説を読むのが楽しい。批評を必要としていない。7年かかった。多くの小説と批評が、読まれなければならなかった。何かを欲望する。それは簡単なようで、難しい。長い時間がかかる。好きなものは好き。嫌いなものは嫌い。分かるものは分かる。分からないものは分からない。だと、欲望は形成されないような気がする。だが、これ以上はまだ、うまく言えない。
 ぜんぜん分からないんだけど興味はある、があってよい。興奮と不安が入り混じった感情。最初からハッキリさせる必要はない。たぶん、人生は言うほど短くない。けっこう長い。時間をかけて自らの興味を寝かせたり起こしたり水をやったり発酵させたり悩んだり話したりしていると、知らぬ間にいつの間にか自分の中に、けっこうカタチある欲望が、芽生えていることに気づく。かつての「小説読みたい」のねばっこさにカタイ皮が、生えてきている。欲望が、自然と循環している。危機は去った。
 ただ私はまたいつの日か、批評を必要とする。そういう確信がある。その時の批評対象は、小説かもしれないし、小説ではないかもしれない。いや、もうすでに批評を必要としている分野が、あるような気がしてきた。読めていないだけで。
 私は私の欲望を諦めたくない、と思う。欲望を育てるのには第三者が必要だが、そこでの第三者の顔を見たい。名前が欲しい。私の欲望はこの人に、この出来事によってかたちづくられた、と言いたい。他人の欲望を知りたい。今この瞬間の好き嫌いではなく、欲望の経路全体を。長い時間をかけて。結果的に誰かの欲望形成を支援することができれば、嬉しい。批評だ。
 
 
 
 
 
 

 


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