イエスでありノー

 

 哲学書、じゃなくても何か抽象的で、壮大な内容が書かれた本を読む時に必要とされる態度は、いったいどういうものなのだろう。書かれた内容を100%信じきる態度だろうか、それとも100%疑ってかかる態度だろうか、それとも50%信じて50%疑うという、「バランスのとれた」態度だろうか。
100%信じきることは盲目的な信仰や、陰謀論に接近してしまうリスクがある。100%疑ってかかることは無気力な相対主義、冷笑主義に堕してしまうリスクがある。そうするとやはり、適度に信じ適度に疑うというバランス感覚が、哲学書を読む時にも必要とされるのだろうか。ふだんの生活を送るときと全く同じように。
 いや、どうせ同じ「バランスのとれた態度」なら、「適度」なバランスではなく「過度」なバランスをとってみせろと言いたい。対象を100%疑ってかかるのだが、それと同時に100%信じきりもすることによって、自分の中にあるバランス感覚を、荒々しくも保ってみせろと言いたい。
 数年前『なぜ世界は存在しないのか』という本が哲学書にしては異例の売れ行きをみせた。何をどう考えても世界は存在しているに決まっているのだが、まあそう冷ややかに結論を急ぐ前に、あるいはその結論を出すのと同時に「世界は存在しない」という著者の主張を真正面から受け止め、信じきってみれば良い。それでようやくバランスがとれると言うものだ。「時間は存在しない」でも「自由意志は虚構である」でも「この世は輪廻でできている」でも何でも良い。ある対象を100%信じきるのと全く同時に100%疑ってかかること。論理的には極めて奇怪と言わざるをえない不思議な能力が、私たちの中には確かに備わっている。
 
 このまえ何人かの酔っ払い友達と「頭が良いってなんやろね」みたいなテーマで議論になった。まずは「頭が良いこと」と「学歴」の相関関係について。その場の過半数は高校卒業後すぐに働き始めたやつらだったので私を含めた少数派に、まずは批判の矛先が向けられることになった。我々は「大卒=頭が良い」などという図式をかけらほども信じていないのだが、そういう批判をしたくなる彼ら彼女らの気持ちも理解できる。
 黙ってひとつひとつの批判を受け入れていると「そろそろおめえら反論してこいや」と言われる。「頭ええ大学入って卒業することの何がそんなに頭ええことなんや」とも。まことに血の気の多い連中である。
 私は正直に「いや、そのふたつは何も関係がないと思うよ。ほんまは。なんとなくええとこ就職しようと思ったら大卒要件が必要やから、みたいなゆるいテンションで大学行っとる人がほとんどじゃねえかなって、偏見かもしれんけど思う」と答えた。
 すると「さめるわ~そういうつまらん話じゃねんよ、わしらが聞きたいのは」と返され、周りも「まあけんすけそういうとこあるけえな」などと同調し始める。たぶん彼ら彼女らは「大卒=頭が良い」という図式を、俺なんかよりもよっぽど強く信じているのだろう。だからこそ、ほんとうに知りたいと思っているのだ。大卒の何がそんなにすごいのかを、何がそんなに頭が良いのかを。
 「なんかよう分からんことについてたくさん知っとる人は多いと思う」と苦し紛れに付け足した。何かに火をつけてしまったのか「知識があることと頭の良さって関係なくね」とか「たくさん知っとることが頭良いってことなら、アニメとか漫画とかについてめっちゃくわしいやつも頭良いって言われるべきやろ」とか、続々と反撃の砲弾が飛んでくることになった。いや、ほんとその通りだと思います。
 その後もしばらく「頭が良いとは何か」についての議論は続いた。学歴、仕事、コミュ力、記憶力、地頭など。最終的な結論は「頭が良いは謎、よくわからん、もしかしたら頭が良いやつなんかどこにもおらんのかもしれん」という、極めて穏当なものに落ち着いた。その日のメンバーに限らず「頭が良いとは何か」というテーマで深堀していけば、だいたい同じような結論にたどり着くような気がする。いわく「頭が良い人は存在しない」。しかし、どのような意味で?

 会として「頭が良い人なんかいない」という結論が出たとしても、その会を構成する個人はあいもかわらず各々の生活の中で人のことを「頭が良い」「頭が悪い」などと認識し、場合によっては声に出し続けるのだろう。私だってそうだ。誰かのことを「この人めっちゃ頭良いな、すげえ」と思うし「この人めちゃくちゃ頭悪いな、アホやん」とも思う。そこで思ったことを、素直に本人に伝えることもある。
 では、やはり「頭が良い人」は存在するのか?答え。イエスでありノー。確かに私は、誰かのことを100%「頭が良い」と思っている。しかしそれとまったく同時に、その人のことを100%「頭が悪い」とも思っている。誰かと親しくなる過程というのは、その人を正反対の方向に引っ張るはち切れんばかりの魅力を、全力で発見していく過程である。そのように言うことができるのではないかと思う。
 もちろん、そこでの「頭が良い」や「頭が悪い」にはさまざまな意味が託されている。ある人に対して使う「頭が良い」と、別の人に対して使う「頭が良い」は、まったく違う意味で用いられている。
 「頭が良い」部分と「頭が悪い」部分のあいだにあるギャップがどれくらい大きいか。これにも個人差がある。個人差と言うか単純に、私がその人のひとどなりを正しく理解できていないだけの可能性も十分にあるわけだが。
 いずれにしても「頭の良い人」は存在する。しかし、もしそこでの「頭の良い人」を「100%頭の良い人=0%頭の悪い人」とするなら、そんな人は絶対に存在しない。存在するとすれば、それは神である。たとえ最初は神のごとく頭の良い人だと思って近づいたとしても、その後仲良くなるにしたがって、その神のような頭の良さとまったくひけをとらない芸術的な頭の悪さがあったことを、私たちは嫌でも(再)発見させられるだろう。
 
 そういうことを考える時にいつも思い出すのが遠藤周作さんの小説である。遠藤さんの描くイエス・キリストの姿である。神であるのとまったく同時に人間でもある、矛盾した彼の生き(死に)ざまである。
 去年の末から通い始めた古本屋さんでつい最近見つけた『死海のほとり』。大学のころに文庫バージョンを買って読んではいたのだが、遠藤さんファンであり箱つき本フェチである私に、もとより買わないという選択肢は用意されていなかった。
 というわけで、今日の朝からむさぼるように読み続けた結果、さきほど読み終えることができた。改めて、すさまじい小説だと思った。人間であるイエスを描くことが、これほどの感動をひきおこしてしまうのは、いったいなぜなのだろう。ダメ人間であるイエスの生涯に徹底的に肉薄することで、そのすき間からイエスの神性がちらちらっと見え隠れするのは、いったいなぜなのだろう。その神性を描くために一度、イエスというダメ人間の生涯を経由しなければならなかった、その必然性は?最初から神だけが、人を救ってくれた。それで、良かったのではないか?100%の神だけ。100%の人間だけ。そのいずれでもない、100%の神であると同時に100%の人間である、イエス・キリストという謎…。
 『死海のほとり』の主人公である「私」はとある牧師に「素直に信じておられますか、聖書を」と尋ねる。私はここを読んでいて、胸が締め付けられるような思いに襲われた。「聖書の言葉ひとつひとつは、じっと考えればわかることです。深い意味を持っているが、むつかしいことではない」と牧師は諭すように言う。私ならここで諦めると思うが『死海のほとり』の「私」は気合いが違う。ぜんぜん諦めない。
 「実感のないこともいくつかあるんです…神の国が近いというユダヤ人の終末意識なんか、昔から聖書を読んでも日本人のぼくには少しもわかりません。このガリラヤでの奇蹟だって、本気でそのまま信じている日本人が今の世の中でどのくらいあるでしょうか…むしろ辛い病人を治したくても治せなかったイエスのほうが、我々に近く感じられるんです。力あるイエスは、ぼくには手の届かぬ遠い存在のような気がするんです……」(p217)
 牧師は俄然まじめなトーンを増した口調で次のように返答する。
 「しかし、そういう理解の仕方は…何の役にもたたん…そういう見方は、自分の弱さを甘やかし、正当化するためだけのもんだ……」(p219)
 私にはキリスト教への信仰もないし、キリスト教についての知識もない。しかし、やっぱり思う。確かに、神としてのイエス・キリストへの理解なら、牧師が勝っているのかもしれない。けれども、人間としてのイエス・キリストなら?「私」はいつだってそこへ近づこうとし、その度に躓く。「日本人でありながら、日本人のほとんどが関心もないイエスに……こう、一生をふりまわされて、時間を浪費してしまった」(p228)
 100%の神を探り当てようとするのが宗教の役割なら、100%の人間を探り当てようとするのが文学の役割だと私は思う。そしてイエス・キリストを信じるというのは、その矛盾する100%を両方同時に、信じてみせるということなのではないか。まさに論理の外、意味不明な行いだ。しかしそれはつまり、奇跡のことである。
 
 
 
 
 
 


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