人間の堕落を理解すること

 ここ一か月ほど坂口安吾という人の文章を、ちょびちょびとだが読んでいる。最も印象に残ったのが「特攻隊に捧ぐ」という文章での、次の一節。
 「戦争は呪うべし、憎むべし。再び犯すべからず。その戦争の中で、然し、特攻隊はともかく可憐な花であったと私は思う。」
 終戦から2年が経った1947年に、この文章は書かれている。戦争を知らない我々世代による適当な放言ならばともかく、戦争を知る文学者による真面目で、切実な思いのこもった文章において「特攻隊はともかく可憐な花であった」と言われるのだから、さてさてどうしたものか。虚をつかれてしまった。
 祖国を守るため己の命を投げ出してまで勇敢に闘い抜いた英霊たち。彼らの行動は決して国から「強制」させられたものではなかった。内側から自然と湧き上がる気高き「愛国心」が、彼らを決死の勇姿へと突き動かしたのであり、戦争を生き延びてしまった我々は、彼らの生き様に対して深い畏敬の念を、抱かなければならない。ということが言いたいわけでは、むろんない。
 安吾は何かこう、奇妙なことを言おうとしている。いや、本人にとっては奇妙でもなんでもないのかもしれない。安吾は自らのあやまちに気づいている。触れれば血が出てしまうほどに、硬く研ぎすまされた自意識をまといながら、それでもあえて誠実に全身全霊をもって、あやまちを犯そうとしている。
 「私は然しいささか美に惑溺しているのである。そして根底的な過失を犯している。私はそれに気付いているのだ。戦争が奇蹟を行ったという表現は憎むべき欺瞞の言葉で、奇跡の正体は、国のためにいのちを捨てることを『強要した』というところにある。奇蹟でも何でもない。無理強いに強要されたのだ。これは戦争の性格だ。その性格に自由はない。かりに作戦の許す最大限の自由を許したにしても、戦争に真実の自由はなく、所詮兵隊は人間ではなく人形なのだ。」
 戦争の悲惨さがこれ以上ないほどに圧縮されたかたちで、表現されている。特攻隊に自由や選択の余地はなかった。端的に言って彼らは、人間として扱われていなかった。分かっている。分かっているのだ。それでもなお安吾にはどうしても、これだけは、というものがあった。人間への理解。これを、諦めてはならぬ。
 「私は『強要せられた』ことを一応忘れる考え方も必要だと思っている。なぜなら彼等は強要せられた。人間ではなく人形として否応なく強要せられた。だが、その次に始まったのは彼個人の凄絶な死との格闘、人間の苦悩で、強要によって起りはしたが、燃焼はそれ自体であり、強要と切り離して、それ自体として見ることも可能だという考え方である。」
 「特攻隊に捧ぐ」という文章は最後、疑問とも反語ともとれる微妙な問いかけを残して、読者をポンっと突き放す。
 「要求せられた『殉国の情熱』を、自発的な、人間自らの生き方の中に見出すことが不可能だろうか。それを思う私が間違っているだろうか。」

 私たちが何かを「問題」だと思う時、それは多くの場合「強制」の性格を帯びている。意識しているかどうかはさておき、何らかの社会問題がつくりあげてきた差別の構造の中で、多くの人は自発的な行動を厳しく、制限されている。それどころか、やりたくもない様々な苦役をよっこらせと、背負わされている。
 こうも言える。私たちが何かを勉強し、何かを「問題」だと思えば思うほど、その問題にとって都合の悪い「個人の体験」は避けられ、軽視され、例外として冷酷に、見過ごされていくようになる。日本社会における「学歴差別」の問題を深刻に捉えている人にとって、中卒の人による「学歴差別なんかないと思うけどなあ」「少なくとも自分は差別されたとか感じたことない」という意見は、たいへんに都合が悪いものとして、受け取られる。耐えられない。これ以上はもう、聞きたくない。
 だから私たちは時に、目の前で話してくれた具体的な意見の迫力を受け止めることを拒絶し、以前から抱き続けてきた信念の正しさのほうを、温存しようとすることがある。「彼/彼女は、差別の構造に気づけていないだけだ」、と。
 けれども、「差別の構造」と「個人の体験」に齟齬が生じ、どちらかを選ばなければならないような状況において、当然の如く「差別の構造」のほうを優先するに足る合理的な理由があるのかどうかは、よくわからない。
 もちろんかと言って、いくつかの「個人の体験」の聴取をもって、「当事者」が差別の体験がないと言っているのだから、やっぱり「差別の構造」なんてものはどこにも存在しないと思うよ、などと賢しらに説いて回るような愚劣も、これはこれで、避けられねばならない。
 「差別の構造」に過度に肩入れし「個人の体験」を否定するのではなく、また、「個人の体験」に過度に肩入れし「差別の構造」を否定するのでもない。このように小難しく言葉で表現すれば奇妙な感じもするが、実際にはおそろしく当たり前のことを、述べているに過ぎない。もし奇妙に聞こえてしまうのだとすれば、それは単純に私たちが、人間を理解することができなくなっているからである。
 以上のようなことを明確な仕方で考えられるようになったきっかけが、岸政彦さんの本たちだった。なかでも私は『マンゴーと手榴弾』という本を、最も好んで読んだ。
 
 岸さんのご専門は「生活史」。岸さんによれば「生活史調査の目的」は「語りを『歴史と構造』に結びつけ、そこに隠された『合理性』を理解し記述すること」(P3)である。これだけだと、ぼんやりした言葉の並びのような印象を受け取ってしまうかもしれない。しかしここには岸さんが「生活史」に賭けている「人間理解」のエッセンスが、情熱が、凝縮されている。
 「差別をされている人びとが、差別をされたことがないと語ったとき、それを理解し記述する私たちには、ふたつの選択肢しかないように思われる。ひとつは、その語り手には、現実のほんとうの姿が理解できていないと解釈すること。そしてもうひとつは、少なくともその語り手は、ほんとうに差別されたことがない、と解釈することである。」(P76)
 このふたつの選択肢のうちどちらが、語り手に対して誠実であるか。それはもちろん後者である。
 「語り手の人びとは、十分な能力を持ち、すでに現実社会に対してさまざまな解釈を自発的に与えている。社会学者はその語りを聞き、そしてその鉤括弧を外して、そのまま社会を再記述すればよい。『差別がなかった』という語りの意味は、差別がなかったということなのだ。」(P78)
 この「鉤括弧を外す」という表現を最初に見た時、とてもよいなあと思った。言葉に「鉤括弧をつける」ことは、言葉それ自体を受け入れ理解することを妨げる。「括弧つき」の理解とは、真の理解ではない。鉤括弧を外してやることで、私たちは初めて言葉を自然の中に溶け込ませ、セリフを地の文へと、根付かせてやることができる。
 「差別がなかった」には、まだ「鉤括弧」がついている。理解は未だ「括弧つきの理解」に留まっている。差別がなかったという現実の描写の受け入れは却下いたします。しょせんは「差別がなかった」と、語られただけにすぎませんから。ここでは現実の次元と語りの次元が、切り離されている。言葉に「鉤括弧」をつけるのは、現実と言葉とのつながりを、断ち切ってしまうような行為なのだ。
 「現実」に存在する差別構造は確固たるもの。それに比べて個々人の「語り」は、大して重要じゃねえ。そういう抽象的な思考に接近してしまうリスクが、「鉤括弧」の発想にはある。一回限り生き一回限り死ぬ、個人の命がけの語りが、鉤括弧という牢獄に囚われてしまう、それは私たちの社会への認識を歪めるのと同時に、その個人への尊厳を毀損することにもつながる。
 
 整理する。私たちの社会にはさまざまな差別の構造がある。例えば、学歴差別の構造がある。私は個人的に、その問題に関心をもっている。家庭の事情で早めに働き始めなければならなかった中卒の友人から「いや、べつに差別されたと思った事ねえよ(笑)ちゃんとした家で、金があったとしても俺勉強嫌いやから、どっちみち大学やこ行ってねかったと思うし」と言われたとする。
 あるいは彼ほどではないが、やはり家にお金がなく、地元の国公立大学にならギリギリ通わせてもらえそうだが、それでも親に負担がかかることは間違いなく、であるならば最初から大学進学は諦め工業高校に進学して、即就職することが合理的だとし、その道を選んだ高卒の友人から「大学はコスパ悪いと思うよ。ていうか遊んでばっかやん、大学生って。俺は大学行かんでよかったなあって思うよ。差別とか、むしろ大学生のほうが金かかってたいへんやろ?」と言われたとする。
 両者とも、私たちの社会に学歴差別の構造があるとは思っていない。いや、少なくとも、そのようなことを語ってはいない。この時、私の中で長年くすぶり続けている学歴差別への問題意識は、いったいどこへ、向かえばよいのだろう?
 私の思い違い、なのだろうか?そのような差別の構造は、私立大学に進学できるような恵まれた人の、頭の中だけにある、抽象的な「観念」に過ぎないのだろうか?当事者による語りを否定できなかった時に残されるのは、差別の構造の否定だけ、なのだろう、か?
 「私たちがここですべきだったのは、語り手の尊厳を尊重しながら、同時に差別が存在するということの重大性を棄損しないために、私たち自身の理論を変更することだったのである。」(P109~110)
 岸さんの言う「理論」は、なにもヴェーバーが~デュルケムが~というような、従来的な「一般理論」を意味しない。それは簡潔に、「人間に関する理論」と呼ばれている。
 「『人間に関する理論』とは何か。それは、そのような状況であればそのような行為をおこなうことも無理はない、ということの『理解』の集まりであり、あるいはまた、そのような状況でなされたそのような行為にどれほどの責任があるだろうか、ということを考えさせるような『理解』の集まりである。この理論は、輻輳し互いに矛盾する多数の仮説を縮減しない。むしろそれは、もっと多くの仮説を増やそうとする。互いに矛盾する仮説のどちらかを採用し他方を却下するのではなく、まるで実物大の地図を描こうとするかのように、私たちは矛盾する仮説を最大限に増幅しようとする。この理論によって得られるのは、たとえば、過酷な状況の中でも人びとは楽しく生きることが可能であるということ、そしてそのような生が可能だからといって、その状況の過酷さを減ずる必要はまったくないという『理解』である。
…要するに私たちは、人間に関する理論を最大限まで複雑化しなければならないのだ。」(P340~P341)
 差別の構造や当事者の体験を金科玉条のように掲げ、反対の立場を単純に否定するような理論は、未だ十分に複雑化されていない理論である。人間に関する理論の対象は、言うまでもなく人間である。人間とは常に、「強制」と「選択」のあいだで揺れ動いている存在である。交互にやってくる「過酷さ」と「楽しさ」の波を乗りこなしながら、日々を生き延びている存在である。であるならば人間の「現実」を扱う理論ではその両方が、描けていなければならない。「どちらか」ではなく「どちらも」を、欲してよい。私たちはもっと貪欲に堂々と、人間のことを理解しようと思ってよいのだ。
 
 安吾は特攻隊の1人1人を「人間」として見ようとした。そのために「強要せられたことを一応忘れる考え方」を、必要としたのだと思う。それは戦争そのものの残酷さや日本軍のデタラメさ、天皇制の恐ろしさをきれいさっぱり、無かったことにするのではない。それらを「一応忘れる考え方」を採用することで、安吾は特攻隊の手記や伝聞から、鉤括弧を外すことができたのだ。彼らの言葉、語りそれ自体を、理解することができたのだ。
 「文学のふるさと」という別の文章の中に出てくる表現で言い換えると、安吾は特攻隊が体験した「現実」に「突き放された」のだと思う。次の安吾が紹介する芥川龍之介のエピソードには思わず、ぞっとさせられる。
 「時々芥川の家にやってくる農民作家—―この人は自身が本当の水呑百姓の生活をしている人なのですが、あるとき原稿を送ってきました。芥川が読んでみると、ある百姓が子供をもうけましたが、貧乏で、もし育てれば、親子共倒れの状態になるばかりなので、むしろ育てないことが皆のためにも自分のためにも幸福であろうという考えで、生まれた子供を殺して、石油缶だかに埋めてしまおうという話が書いてありました。
 芥川は話があまりにも暗くて、やりきれない気持になったのですが、彼の現実の生活からは割りだしてみようのない話ですし、いったい、こんなことが本当にあるのかね、と訊ねたのです。
 すると、農民作家は、ぶっきらぼうに、それは俺がしたのだがね、と言い、芥川があまりの事にぼんやりしていると、あんたは、悪いことだと思うかね、と重ねてぶっきらぼうに質問しました。
 芥川はその質問に返事をすることができませんでした。何事にまれ言葉が用意されているような多才な彼が、返事ができなかったということ、それは晩年の彼が初めて誠実な生き方と文学との歩調を合わせたことを物語るように思われます。
 さて、農民作家はこの動かしがたい『事実』を残して、芥川の書斎から立ち去ったのですが、この客が立ち去ると、彼は突然突き放されたような気がしました。」
 安吾は、ここでの「突き放される体験」のことを「文学のふるさと、或いは人間のふるさと」と呼んでいる。またしても、奇妙な言葉遣いである。一般的に言われる「ふるさと」は、個人を温かく受け入れ、包摂してくれるような場所としてある。けれども安吾の言う「ふるさと」は逆に、個人を「突き放す」地点としてある。それまでのモラルが崩壊した後に残る、冷ややかで荒涼とした、砂漠のような世界。安吾はその光景をこそ、「ふるさと」と呼ぶのである。
 安吾が特攻隊の「鉤括弧」を外すことができたのは、彼が自らを強烈に突き放す「ふるさと」の体験の根を、もつことができていたからだろう。いったん突き放された後で、冷静に、透徹した眼力で「人間」を眺め、ひとつひとつの鉤括弧を外す作業に、着手しようとしたのだろう。
 安吾のもっとも有名な文章に「堕落論」というものがあるが、私はそこでの「堕落」の体験とは先ほどの、「突き放される」「ふるさと」の体験と、どこか似たものがあるのではないかと思う。
 「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかないものである。」
 ここでの「堕ちる道を堕ちきる」ことは、中途半端に縛り付けられているモラルの意識から解き放たれ、人間の現実に「突き放される」ことと、おそらく同義なのではないか。「堕落論」とは、安吾にとっての「人間に関する理論」だったのではないか。
 「人間の一生ははかないものだが、又、然し、人間というものはベラボーなオプチミストでトンチンカンなわけのわからぬオッチョコチョイの存在で、あの戦争の最中、東京の人達の大半は家をやかれ、壕に住み、雨にぬれ、行きたくても行き場がないとこぼしていたが、そういう人もいたかも知れぬが、然し、あの生活に妙な落着と決別しがたい愛情を感じていた人間も少なくなかった筈で、雨にはぬれ、爆撃にはビクビクしながら、その毎日を結構たのしみはじめていたオプチミストが少なくなかった。私の近所のオカミサンは爆撃のない日は退屈ねと井戸端会議でふともらして皆に笑われてごまかしたが、笑った方も案外本音はそうなのだと私は思った。」(「続堕落論」)

 岸さんの聞き取り調査のメインの現場は、沖縄である。日本という国において沖縄ほど、一枚岩で語られている場所はない。とは、さすがに言い過ぎだろうか。それこそ、近代化によって失われし昔ながらの共同性、つまり「ふるさと」の像を、沖縄に見出そうとする人は決して少なくない。
 岸さんはそのようなステレオタイプな沖縄の見方に抗そうと、沖縄という場所がいかに「さまざまであるか」を執拗に何度も、描き直す。数ある沖縄の生活史の中で、私はつぎのココアの話が、最も強く印象に残っている。
 「コザの中の街という繁華街にやってくる暴走族を見る『ギャラリー』として、女子たちは街に出ていったが、車に乗った男たちにナンパされ、なかばレイプのようにして、友人たちは性行為を体験していく。
 ある夜、その有名なヤンキーの女子とその友だちが、そうした男たちにナンパされ、ふたりのうちのひとりが車中でなかば無理矢理に初めての性行為を体験させられる。そしてそのあと、ふたりで語り手の家にやってきて、体がべとべとするから、風呂を貸して欲しいと言った。語り手は何も聞かずに風呂にいれてやった。風呂からあがった友達のひとりが、ココアを飲みたがった。語り手はそこにおもいきり甘くしてやった。
 このエピソードを、語り手は『ちょっとリアルな感じの話するね』と言いながら語り始めている。それは語り手のなかでも特に印象的な物語なのだ。語り手はこの、実際に起きた物語を何度も思い出し、その意味について何度も考えたことだろう。そしてこの物語を聞いた聞き手としての私も、その場で非常に感銘を受け、何度もココアという言葉を口にしている。そういうことがあったんですね、としか言えなかったのだが、とにかくそういうことがあったのだということを、なんとか語り手と共有しようとしたのだ。」(P336~337)
 ここでやはり岸さんは、語り手の語りが放つ無機質な現実に、突き放されている。安吾の言う「ふるさと」の体験に、心身を冷やされている。そこでの「ココア」にはどんな意味が?という問いは無粋である。友達はココアを欲しがり、語り手はココアを準備した。それ以上でも、以下でもない。もしココアをより抽象的、あるいは具体的な言葉で言い換えてしまったら、もうそれは語り手にとっての現実ではない。語られたことだけが現実である。その語りに激しく傷つき、「堕ちる道を堕ちきる」こと。それこそがおそらく「人間に関する理論」の、出発地点なのである。

 

 


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